■ 城跡・史跡めぐり探訪記 2012

管理人ヨシ坊が訪ねた城跡・史跡の探訪記録です。

城跡・史跡めぐり探訪記 2013

城跡・史跡めぐり探訪記 2011

城跡・史跡めぐり探訪記 2010



トップページへ

12月23日(日)晴/勝山城豊川城(豊川市)

 今日も豊川の城めぐりである。豊川市三上町の勝山城と同市西豊町の豊川城の二ヵ所である。

 豊川市の大半は豊川右岸に広がっているのだが、この勝山城のある地域は豊川左岸にあって豊橋市域に食い込むようになっている。城館資料(東海古城研究会「城」140号)によれば本丸と二の丸から成り、堀、土塁、虎口、馬出、土橋、井戸などが記されている。これらの遺構がその復元図通りに残っていればかなり見ごたえのある城址なのだが、現状は宅地化されて見る影もない有様である。地域の集会所前に建てられた城址碑だけがかつてここに城のあったことを伝えているのみである。ただ本丸跡に井戸が今も残るというので周辺を歩いてみると資料図と同位置の畑のなかに井戸があった。この井戸、コンクリのふたの上にポンプが載っていたので現在も使われているようなのだ。

 勝山城の城主として熊谷越後守の名が伝えられている。宇利城主で松平清康と戦って敗れた熊谷備中守と同族と言われている。

 豊川城は初詣の時期には大変賑わう豊川稲荷のすぐ近くにある。三河国司大江定基の孫定厳が鎌倉期に地頭となってここに城館を構えたことにはじまるという。関ヶ原後の慶長七年(1602)に刈谷藩主水野勝成の弟八十郎忠直が三千石を拝領してここに陣屋を構えたという。現在は浄土宗の光明寺の境内となり、遺構はないようだ。ただ、同寺の墓地に忠直の墓が残っている。

 これで今年の城めぐりはおしまいである。合計55ヶ所の城館、史跡を訪ねた一年であった。アップ作業が遅れているのが気になるが、来年も気合入れていくぞーっ(^_^)

↑勝山城

↑勝山城 本丸井戸

↑豊川城
12月16日(日)晴/足山田城(豊川市)

 資料閲覧のために豊川市図書館に出かけた際に同市内の足山田城へ寄った。

 この城はゴルフ場のコース内にあるために寄ったというよりも場外から城のある山容を遠目に眺めただけである。山上には削平地と土塁、堀切が残り、一部には石塁まであったと言われている。たいへん興味深い城址と言えるのだが、ゴルフの趣味は持ち合わせていないので無断でコース内に踏み入るわけにはいかない。仕方なく柵外からカメラを向けるほかない。

 この城の主として武田家臣秋山新九郎の名が伝えられている。伝承では新九郎の家臣秋山六郎が天正三年(1575)の長篠合戦時に設楽原に向かう織田・徳川の大軍に向かって僅かな小勢で突入して果てたと言われている。宝川合戦とも呼ばれているそうだが、どこまでが史実なのかは分らない。彼の墓の建てられた辺りを六郎辻と呼ぶようになり、現在も石碑が建っている。城の東側約800mほどのところである。

↑足山田城(中央遠くの山)

↑烈士秋山六郎の碑
12月2日(日)曇/二俣城(浜松市天竜区)、大谷陣屋(同北区)

 今日はSさんとの城めぐりの日である。二俣城、そして新東名を利用して三ヶ日町へ移動し、大谷陣屋跡を見てまわった。

 二俣城は何度も訪れている城跡なのであるが、いつ訪れてもその季節の風情を楽しませてくれる。春は桜、夏は濃い緑、そして今の時期は赤・黄の紅葉が訪れる者の心を和ませてくれる。武骨な野面積の天守台が四季折々の情景に包まれて数百年前の歴史を私たちに語りかける。城跡はしんと静まりかえっていたほうがいい。目の前の石垣や土塁と語り合えるからである。

 さて、陣屋好きのSさんに応えて、以前から話題(私とSさんとの)になっていた三ヶ日町の大谷陣屋へと車を向けた。二俣から三ヶ日まで高速を使えばわずか30分である。

 大谷陣屋は東名三ヶ日インターから北へ5分とかからない所にある。県道が大谷川を渡る手前に大谷代官屋敷の説明板が立てられている。説明板のところにはそれなりの門構えがあって古の風情を残している。領主の大谷近藤家に代わって領内を支配したという大野氏の屋敷だという。陣屋跡はここから北側一帯の地域にあったようだ。現在ではミカン園となってしまい、遺構は説明板の立っている所に井戸跡が残るのみである。

 大谷近藤家は気賀近藤家の分家で、寛永元年(1624)に近藤用行を初代として始まった。石高は最終的に三千石を領した。二代用高の時に当地へ本格的に陣屋を構え、天保十三年(1842)七代用誉が内野(浜北区)に移るまで続き、廃城となったとされる。

↑二俣城

↑大谷代官屋敷

↑大谷陣屋
11月3日(土)晴/岡山本陣大垣城墨俣城(大垣市)、高須城(海津市)
 美濃西部の城址めぐりに出かけた。西濃の中心城郭といえばやはり大垣城であろうか。

 大垣城がその歴史の中で脚光を浴びたのは何と言っても関ヶ原の時であろう。石田三成ら西軍10万が大垣城に集結して徳川家康ら東軍勢を待ち受けた。関ヶ原決戦の前日、家康の岡山着陣を知った三成は家臣島左近の献言を容れて東軍に一撃を加えるべく左近らの一隊を出撃させた。杭瀬川の戦いがそれである。小部隊どうしの戦闘ではあったが、西軍圧勝の結果に終わった。

 そんな訳で、大垣城を訪ねる前にまずは杭瀬川の戦いで討死した東軍の野一色頼母の塚へと向かった。続いて家康が陣取った岡山本陣跡、さらに戦場跡とされる杭瀬川河岸の日吉神社へと車を走らせた。
 家康が陣取った岡山(関ヶ原後は勝山と呼ぶようになった)はJR美濃赤坂駅近くの安楽寺の裏山それである。本堂左の石段が岡山への登り口となる。頂上までわずか数分である。頂上には「史蹟関ヶ原合戦岡山本陣址」の石碑のみが建つだけで、土塁などの遺構は見られない。戦時中、高射砲陣地となっていたようで、そのために遺構は消滅したのであろうか。

 さて、大垣城である。昭和60年(1985)以来27年ぶりの再訪である。大垣公園から天守閣の方へ歩いて行く。右手に濃飛護国神社、かつての二の丸跡である。さらに進むと本丸の西側に出る。白漆喰の塀の向こうに再建された天守が見える。そして塀の手前に大垣藩10万石の城主として入封した戸田氏鉄公の騎馬像が建てられている。その騎馬像の背後に設けられた西門(模擬)から本丸跡へ入るのだ。天守の建つこの一画はそれほど広くはないが、それでも二つの隅櫓が再建されている。天守内部は他の多くの天守閣同様、各種の資料が展示されている。

 慶長5年(1600)8月、伊勢の諸城を攻略して大垣城に集結した石田三成らの西軍勢は9月14日の杭瀬川の戦いで勝利したその夜のうちに関ヶ原へ移動した。そして天下分け目の大合戦となる。結果は家康率いる東軍の完勝に終わったことは周知のことである。関ヶ原の戦いは一日で終わったが、大垣城の攻防はその後も7日間続き、23日に至ってようやく降伏開城となった。

 大垣城で資料を買い込み、次の目的地墨俣城へと車を走らせた。墨俣城は大垣城のほぼ真西約7kmの長良川と犀川の合流点にある。城址には立派な4層5階の天守閣が建っている。無論、この建物は史実に沿ったものではない。墨俣町が歴史資料館として建てたものなのだ。最上階からは岐阜城が遠くに確認できる。

 墨俣城は、というよりこの砦は永禄3年(1560)から5年にかけて織田信長が美濃攻略のために幾度か築こうとして失敗していたものを永禄9年(1566)に木下藤吉郎がわずか2・3日で築き上げたものとして知られている。短時日で築いたために一夜城と呼ばれることが多い。

 墨俣から今度は南へ車を向け、長良川と揖斐川に挟まれた輪中地帯を走る。海津市の高須城が目的地である。

 高須城主高木盛兼は関ヶ原時には西軍に付いたために、反転西上してきた東軍勢によって8月19日に落城、出雲に逃げ去った。戦後、徳永寿昌、昌重、小笠原貞信と藩主が替わり、元禄13年(1700)からは尾張藩主徳川光友の次男義行が3万石で入部して13代続いて明治に至った。高須藩松平家は尾張徳川家の嗣子断絶を補う役目を持っていたようだ。ちなみに会津藩主となった松平容保は高須松平家の出身である。

 高須城のあった海津市には郷土の歴史を残すために立派な歴史民俗資料館が建っている。高い石垣の上に御殿風の建物が建っているのだが、資料館正面は現代風の建物なのである。知らない人はここが城跡なのかと思うかも知れないが、違うのである。ここから北西に1.2kmほどのところに城跡公園があり、その付近が城址といわれている。この城跡公園のすぐ南に赤い橋が架かっている。主水橋と呼ばれる橋で、その下の小川はかつての堀跡だと言われているのである。高須城唯一の遺構といっていい。

↑岡山本陣跡

↑杭瀬川古戦場付近

↑大垣城

大垣城 戸田氏鉄公騎馬像

↑墨俣一夜城

↑海津市歴史民俗資料館
10月20日(土)晴/長沢城岩略寺城(豊川市)
 秋の涼気が心地よい時期となった。今日も豊川市へと車を向けた。目的地は豊川市西部の長沢である。ここに長沢城と岩略寺城がある。

 長沢城は丘城であったようで、今ではその高台一帯が宅地化され、さらに国道1号線の建設などにより、かつての城跡の面影は無くなってしまっている。高台の民家宅地内に愛知県によって建てられた城址碑と、1号線沿いに標柱があり、長沢小学校南側に説明板があるのみだ。その一つひとつを車で移動しては歩き、また移動しては歩きで探し回った。長沢保育園の北西に接する小さな丘に御堂が建てられている所がある。城館資料では観音堂城となっているが、これは長沢城の一部であると見られている所だ。国道1号線建設以前は国道北側の古城団地の高台の延長線上にあったはずである。この観音堂は古城観音と呼ばれ、築城時に城内に祀られたと言われているものであるから、ここが城内の一部であったと見てよいのではないか。
 長沢城を築いたのは十四松平氏のひとつ長沢松平氏の祖である松平親則である。時期は長禄二年(1458)とされる。親則の後、代々ここを居城とし、九代康直の時に家康の関東移封に従ってこの地を去った。

 岩略寺城は別に長沢山城とも呼ばれることから、先の長沢城と地理的に見ても関連していることは明らかであり、戦時に備えて構築された長沢城として見ることもできよう。ただ、具体的な事歴は明確ではなく、おそらくは今川氏やその後の徳川氏によって改築されたものと見られている。
 この岩略寺城は標高170mほどの山上にあるが、登城に際しては城山林道と称される林道が本曲輪直下まで続いており、車なら10分足らずで行く事ができる。駐車場から本曲輪に行くのに息を切らせることもない。何とも楽な山城探訪ができる城跡でもある。本曲輪に至る間に井戸跡とされる竪穴が二ヵ所ある。この城は井戸の多い山城としても知られるところなのだ。全部で5か所あるそうだ。
 もう一つこの山城の特徴というか名物がある。三日月堀と呼ばれるものだ。三日月堀というと武田流の城跡に馬出しに伴って掘られているものを連想するが、ここのはそれではない。腰曲輪と内側の切岸の間に掘られているもので、切岸の高さを増幅させるためのものであったと見られている。
 本曲輪入口の井戸の側に小さな祠がある。井戸の写真を撮ろうとカメラを構えると祠の土台石の隙間へマムシが入り込んでゆくのが見えた。山城にマムシはつきものなので、登城の際には短パン・サンダルは絶対禁物ですよ、城好きの皆さん。

↑長沢城址碑

↑観音堂

↑岩略寺城の井戸のある土塁

↑岩略寺城の三日月堀
9月15日(土)晴/八幡山城安土城観音寺城日野城(近江八幡市、東近江市、蒲生郡日野町)
 今年の目標のひとつであった近江の城めぐり。いざ、出陣である。相棒はいつものトモ坊である。
 早朝5時には東名高速に乗り一路滋賀県を目指した。まだ暗い時間である。関ヶ原付近で激しい雨に見舞われたが、彦根に近づいた頃には青空と白い雲という夏空に変わった。今日も暑くなりそうだ。
 8時前には安土城の大手前に到着。ところが、駐車場と大手口の開門は9時なのである。それなら、ということで八幡山城へ移動することにした。八幡山への登山はロープウェイを利用するが、実はこの始発も9時なのである。しかし、こちらの方はその待ち時間の間に見どころがあるのだ。

 八幡山城は羽柴秀次が天正13年(1585)に近江八幡43万石を秀吉から与えられた際に安土城に替わる城として築城されたものだ。秀吉自ら陣頭指揮を執って城、館、城下町の建設にあたったといわれる。言うまでもなく城郭は八幡山山頂部に築かれたが城主秀次とその家臣団の屋敷は南麓に造営された。
 八幡山ロープウェイ駅の駐車場に車を置き、切符販売開始までの間に八幡山南麓の秀次の館跡を一見しようと八幡公園の方へ徒歩で向かった。今日も30度越えの猛暑日になりそうだ。それでも日陰に入ると涼やかな風が心地よく流れている。秋はたしかに近づいているようだ。八幡公園は秀次館に至る大手道の東側一帯に整備された公園である。ロープウェイ駅から西へ300mほど行くと市立図書館に突き当たる。ここから公園内に入り、石段を登って行くと左手に関白豊臣秀次公の銅像が建っている。この銅像前を西へ、さらに階段を上がってまた西へと行くとかつての大手道跡に突き当たる。この辺りには当時の石垣も残っており、家臣団の屋敷などが置かれていたと思われる。突き当りの大手道跡(現在は一筋の山路程度)へ出て右を見上げると高石垣が目に入る。秀次の館跡の石垣である。時期的に野草や木々が生い茂っているが、垣間見える隅石の状況から石垣の壮観な様子が伝わってくる。

 再びロープウェイ駅に戻り、一服するうちに始発の時間となった。乗客は私たちと3人の一家族のみである。本日の八幡山城一番乗りとなったしだいだ。山頂駅に着くと正面に石垣が目に入る。二の丸の石垣である。順路に従って進めば本丸に至る。どこを歩いても石垣が目に入る。石垣造りの山城なのだ。隅石の勾配は直線的なもので後に見られる曲線で孤を描くようなものではない。本丸に至る虎口は内枡形の遺構がそのまま残っている。
 本丸には村雲御所と呼ばれる門跡寺院である瑞龍寺が建てられている。御存知のように秀次は秀吉の後継者として活躍した武将であったが、秀吉に実子秀頼が誕生した後の文禄4年(1595)に切腹に追い込まれてしまった。瑞龍寺は秀次の実母である秀吉の姉が秀次とその一族の菩提を弔うために京都嵯峨に建立したものであり、昭和38年にここ本丸跡に移された。
 本丸の北側に北の丸、西側に西の丸跡が残り、それぞれからの眺望は素晴らしい。西の丸から南へ100mほど下ると出丸跡に至る。途中には石垣の石が崩れ落ちている場所もあってこれで危険ではないのかと思われる箇所もあるので行く際には注意が必要だ。

 10時過ぎ、安土城大手前に再び取って返す。言うまでもなく安土城は織田信長が天下布武の居城として築き、天正7年(1579)に完成した城である。今回の訪城は2度目である。初めて訪れたのは20年ほど前である。その当時は現在の大手道周辺は発掘調査段階であり、石垣や石段などはあまり目立たなかったように記憶している。もちろん有料ではなく、車の駐車も大手前の広場に勝手に停めて、自由に登城できたものだ。ところがかつて車を停めた広場には石垣群が復元され、20年前とは全く違う景観となっている。

 大手入口で入場料500円を払って大手道の石段を登る。その両側には家臣団屋敷の平坦地が雛段状に設けられ、それぞれに石垣が復元されている。大手道は直線的で、先の八幡山城の英次館の大手道もそうであった。安土桃山期初期の特徴のひとつであろう。大手道石段を上がりきると伝織田信忠邸跡の前に至る。ここまで来ると木々のおかげで太陽に直射されることもなくなる。さらに本丸への石段を上がると黒金門跡である。主郭部への入り口であり、喰違虎口である。まずはここから二の丸の信長公本廟にて参拝後、本丸の広い曲輪へと出る。信長の御殿のあった所だ。そして天守台である。
 安土城の天守台は不等辺八角形という特異な形をしていることでも知られている。発掘された礎石群を見ると、信長が築き、人々を驚嘆させた天守閣がまさにここにあったのかと、歴史の重さ、尊さが身に迫ってくる。現場に立たなければ解らない感慨であろう。だから城めぐりはやめられないのだ。

 再び黒金門の虎口から大手道へ出る。ここから逆に搦め手道へと歩く。こちらにはハ見寺が建てられていた所がある。現在は大手徳川家康邸跡に建てられているが当初はこちらにあったのだ。本堂跡からの眺望も素晴らしい。最初に訪ねた八幡山城が西の湖の向こうに見える。本堂跡前には三重塔、そして少し下ると二王門である。いずれも重文に指定されている。
 二王門からは長い石段を下り続けることになる。そのまま下って舗装道路に出てもよいが、山裾伝いに大手道の羽柴秀吉邸に至る山路があるので暑い時期にはこちらの方がよい。アップダウンもなく、心地よい涼風を受けながら歩けば汗も乾いてくる。

 安土城の近くには安土城考古博物館や信長の館といった施設が建てられている。まずは考古博物館に立寄り、参考となりそうな資料を購入した。時間は昼近くになっていた。腹を満たそうと安土文芸の郷レストランにて昼食、しばしの休憩をとることとした。

 次なる目標は観音寺城である。登山ルートと方法はいくつかあるが、時間と体力を考えるとやはり車で行ける所まで行くべきだろう。そんな訳で五個荘側から観音正寺東側駐車場に至る林道を利用した。この駐車場(10台位)からお寺までは500mほど歩くことになるが、すでに城域内にあり、所々に石垣が見える。観音寺城は巨大な山城なのだ。
 観音寺城は近江南部に勢力を張った六角氏の居城である。六角氏は近江源氏佐々木氏の裔にあたることからこの城を佐々木城と呼ぶこともあるようだ。南北朝期には城として存在していたと言われるが、創築の時期は判然としていない。応仁の乱後は幾度も戦闘を経験しており、その度に巨大化したのであろうか。

 目指す本丸は観音正寺からさらに300mほどの山道を登らなければならない。八幡山城、安土城と登り続けた後だけに足が重くなってくる。それでも本丸跡に立つと気分が良いから不思議だ。あまり整備されていないようだが、それはそれで風情があって良い。本丸から南へ下ると平井丸と呼ばれる曲輪に出る。平井丸南側の虎口を出ると落合丸だ。この虎口の石垣は良い状態で残っており、観音寺城の写真として私たちがよく目にする部分である。さらに下ると池田屋敷と呼ばれる広い曲輪となる。いずれの曲輪も石垣で囲まれたものであったようだ。今回の観音寺城の訪城は池田屋敷曲輪までで引き返すこととなるのだが、実はこうした曲輪が無数といってよいほどに広がっている城なのである。

 さて、観音寺城を下山して次に向かったのは蒲生氏の城である日野城である。今日最後の訪城地である。日野城は山城ではないので息を切らすこともない。体力を使い果たした後に訪れるにはちょうど良いコースとなった。

 蒲生氏は信長の家臣であった氏郷が著名な武将として知られている。ここに日野城が築かれたのは天文2年(1533)頃で、氏郷の祖父の代のことと言われている。氏郷はここで生まれ育ったのである。産湯の井戸跡も今に伝えられ残されている。氏郷は後に会津若松城主となって92万石の太守に出世することにる。天正10年(1582)の本能寺の変の際には信長の妻妾らを日野城に迎えて保護したことでも知られる。
 しかしながら遺構の大半は宅地化やダム湖によって失われてしまっているのが現状だ。かろうじて土塁上に稲荷神社などが建ち、空堀跡の一部が残されている。

 これで帰路についたわけであるが、近江の城めぐりとはいえそのほんの一部を今回はつまんだに過ぎない。この後、幾度も足を運ぶことになりそうである。

↑八幡山麓の秀次館の石垣

↑村雲御所瑞龍寺門跡の山門

↑八幡山城本丸の石垣

↑安土城大手道

安土城 黒金門跡

↑安土城本丸天守台

↑安土城ハ見寺跡からは八幡山城が見える(望遠使用)

↑観音正寺

↑観音寺城本丸

↑観音寺城平井丸の虎口石垣

↑日野城

↑日野城本丸跡の蒲生氏郷公産湯の井戸
8月26日(日)晴/西方古塁御馬城佐脇城(豊川市)
 天気の良い日はやはり訪城したくてじっとしていられない。さっそく豊川市の城めぐりに出かけた。アンコールの遺跡も凄かったが、私にとっては遺構が消滅して石碑だけになった城跡も同じ次元にある。訪れた後の満足感は同レベルにあるのだ。

 例によって人出と交通量のの少ない早朝の時間帯に目的地を目指した。今日は豊川市御津町の3ヵ所が目標である。

 まずは西方古塁である。城館資料では西方村古屋敷として載せられているが史跡名としては西方古塁となっている城館跡である。天正18年(1590)に吉田城主となって東三河を支配することになった池田輝政が御津支配の拠点として陣屋を設けたことにはじまる。現在は土塁の一部が藪の中に残存している。当時は南北200mにおよぶ巨大な城館であったといわれる。

 この古塁跡から600mほど南に御馬城跡がある。跡といってもこの城の位置は確定していないようである。そんなわけで遺構は消滅してその片鱗すら残っていないということなのだ。それでも石碑が建てられ、説明板まで立てられているのでその辺りにあったのだろう。応永二年(1395)足利義満の命により細川氏が築いたものとされているから、城館としては古い方である。戦国初期、今川義忠によって城主が追われ、廃城となったようだ。

 御馬城跡から東1.3kmほどのところに佐脇城跡がある。ここも遺構は消滅して見るべきものもない。ただ小公園の一隅に城址碑の石柱と説明板が立てられている。訪城者にとってはありがたいかぎりである。ここ佐脇城の歴史も古いようだ。鎌倉時代に当地の地頭であった佐脇氏が南北朝期に築いたものとされ、室町将軍の奉公衆であったという。やがて伊勢を基盤とするようになってここを去ったらしい。戦国期には松平、今川の争奪戦の戦場となり、双方がこの城塁を奪い合っている。

↑西方古塁

↑御馬城

↑佐脇城
8月19日(日)晴/タ・プロームバンテアイ・スレイベン・メリア(カンボジア/シェムリアップ)

 カンボジア二日目。わが女性陣(妻と二人の娘)は食べ物が合わなかったのか腹具合がおかしいらしい。幸い私の体調は何ともない。早朝4時頃には起きてそわそわしている。今日の予定は朝飯前にアンコールワットの夜明けの見学である。5時頃にはお迎えのマイクロバスがホテルに来るのだ。女性陣は無理かなと思いきや、行く気満々で起きてきた。

 アンコールワットの夜明けは夕暮れの情景とともに有名なようである。6時頃、きれいな朝焼けを背景にアンコールワットのシルエットが素晴らしかった。

 一旦ホテルに戻り、朝食後直ちに出発。向かった先はタ・プロームの寺院遺跡である。

 タ・プローム遺跡はアンコールトムを築いたジャヤヴァルマン7世によって建造された仏教寺院遺跡である。この遺跡を特徴づけているのは肥大化したガジュマルの大木であろう。その根は石造物の間に入り込み、太くなって破壊してしまうのだ。その様子は熱帯のジャングルに呑み込まれ崩れゆく古代遺跡そのものである。遺跡内には根の肥大化によって崩れ落ちた石材が至る所に散乱している。

 ガイドは映画トゥームレイダーのロケ地だったことをしきりに言っていた。

 次に向かったのはアンコール遺跡の集中する地域からは少し離れた所にあるバンテアイ・スレイと呼ぶヒンドゥー教の寺院遺跡である。

 アンコール朝の王ラージェンドラヴァルマンの時(967年)に建造が始まり、次代のジャヤヴァルマン5世の時(990年頃)に完成したという。遺跡全体が赤い砂岩で築造されており、他の遺跡と違う雰囲気を漂わせていた。広さはさほどでもないが建造物に施されたレリーフが細密なのに驚かされる。しかも彫りこみが深く、その加工技術の高さに驚嘆するばかりであった。アンコールトムの建造される200年前にはすでにこうした技術を持っていたことになる。当時のクメール人たちの王朝の繁栄と信仰の強さを物語る素晴らしい遺跡である。

 昼食後、案内されたのはシェムリアップ市街から車で1時間以上離れたベン・メリア遺跡である。カンボジアの田園風景を眺めながらマイクロバスは快調にベン・メリアへの道路を飛ばした。

 ベン・メリア遺跡もヒンドゥー教の寺院跡である。建造は12世紀前半とされており詳細はいまだ不明な部分が多いと言われる遺跡である。時期的にはアンコールワットと同時期のものと思われ、その様式も似ているとされている。幅40〜50mの環濠に囲まれた方形の遺跡であり、その周囲は4.2kmといわれる。アンコールワットに近い規模といえるがその大部分がいまだジャングルに覆われており、地雷の除去も近年に至ってやっと完了したということであった。とはいえ迂闊に密林の中に踏み入ることは避けるべきであろう。建造物もガジュマルの根に破壊され石材が崩れ落ちて無残な状態にあるが、それがかえって古代王朝の栄枯盛衰を見るようで感慨深いものを漂わせている。

 ここではガイドがこの遺跡を天空の城ラピュタのモデルになったと言っていたが、申し訳ないが私にはどうにもイメージが結びつかなかった。

 さて、これでわが家のアンコール遺跡めぐりも終了である。再びホテルに戻り、夜9時半の便でシェムリアップ空港を飛び立ち、ホーチミンで日本行の便に乗り継いで帰国の途についた。

↑夜明けのアンコールワット

↑タ・プローム遺跡の参道

↑ガジュマルの根に覆われたタ・プローム遺跡

↑赤い砂岩のバンテアイ・スレイ

↑バンテアイ・スレイのレリーフ

↑ベン・メリア遺跡内の経蔵

↑ベン・メリアの崩れた石材
8月18日(土)曇後晴/アンコールトムアンコールワット(カンボジア/シェムリアップ)
 昨夜、シェムリアップの空港に到着。一夜明けた今日は朝からアンコール遺跡めぐりである。歴史好きの私にとっては日本の城めぐりと同様に血沸き肉躍るといった状態である。

 まずはツァーのプログラムによってアンコールトム遺跡の見学からスタートである。アンコールトムはアンコール遺跡群のなかでも最大の規模を誇る遺跡である。アンコール時代は9世紀から15世紀前半までの約600年間栄えたもので26人の王の名が確認されているという。そのアンコール時代で最も隆盛を誇ったのがジャヤヴァルマン7世という王であった。マレー半島にまで軍を進め、ミャンマー近くにまでその版図を拡大したといわれる。即位したのが1181年というから日本でいえば平家全盛の頃である。

 アンコールトム遺跡は幅100mの環濠と1辺3kmで高さ8mの城壁で囲まれたの正方形の都城なのである。東西南北4ヵ所に陸橋が設けられて城外につながっている。都城内には王宮とともに幾つもの寺院が築かれている。無論、これらの建造物のすべてが石造りであり、都城中央に建造されたバイヨン寺院などは驚嘆に値する見事なものである。
 昼近くには南国の太陽が強い日差しを容赦なく見学者たちを襲い始めた。汗だくの見学となったが、それを忘れさせるほどに遺跡の凄さは素晴らしいものであった。

 午後からはアンコール国立博物館の見学、そして15時頃からアンコールワット遺跡の見学である。

 アンコールワットはアンコールトムを築いたジャヤヴァルマン7世より3代前の王、スールヤヴァルマン2世が建造したヒンドゥー教の寺院である。時代は平安時代、武士が力を持ちはじめつつあった時期である。規模はアンコールトムの1/4ほどであるが、やはり100m近い幅の環濠に囲まれている。何といっても石造建築の美しさとあらゆる壁面と柱に施されたレリーフは圧巻である。

 遺跡の石柱にはカンボジア内戦時代に撃ち込まれた銃弾の跡も残っている。ポルポト軍がこの遺跡を砦としていたためである。堀と石塀と見張に適した塔があることから十分に城砦の代わりになったのであろう。

 遺跡内を数時間かけて見学し終わる頃、夕暮れ時を迎える。夕日を受けて金色色に染まる遺跡の姿は観光の目玉でもある。あいにく赤い夕陽に染まるという空ではなかったが、たっぷり遺跡の醍醐味を堪能できた一日であった。

↑アンコールトム南門

↑アンコールトムのバイヨン寺院

↑アンコールワット西塔門

↑アンコールワット中心部
8月16日(木)晴/統一会堂(ベトナム/ホーチミン)
 恒例の夏休み家族旅行。どういうわけか、今年は海外ということになってしまった。カンボジアの世界遺産アンコールワットとその周辺の遺跡めぐりがしたいということなのである。もちろん、海外旅行には不慣れなため、食事つきの完全パック旅行で現地のガイドさん任せの旅である。カンボジア入国前にベトナムのホーチミン市で2泊、市内めぐりやらメコン川のジャングルクルーズなどを満喫することとあいなった。

 ホーチミン市内めぐりで個人的に興味があったのが統一会堂の見学である。統一会堂の名は1975年のベトナム戦争終結後に名付けられたもので、それまでは南ベトナムの大統領府・官邸であった建物である。

 1975年といえば私がまだ学生の頃である。新聞、雑誌、グラフ誌などがこの大統領官邸の前庭に突入した北ベトナム軍の戦車を戦争終結の象徴のように掲載していたことを鮮明に覚えている。イデオロギーによる東西対決の激しい時代であり、多感な青春時代の一コマとして記憶の奥底に刻み込まれている方々も多いのではないだろうか。

 そんな訳で第二次大戦後の歴史を象徴する史跡のひとつとして、おそまつながら史跡夜話の1ページに加えようと思ったしだいである。

↑統一会堂(旧南ベトナム大統領官邸)

↑統一会堂前庭に展示されているソ連製の戦車
7月29日(日)曇/ヤリデン城本宮山城松平館(豊川市)
 お隣の三河へ久しぶりの訪城に出かけた。昨年の10月以来の訪城である。現在は豊川市であるが合併前の一宮町にある城館跡3ヶ所である。

 まずはヤリデン城からだ。城館資料の表記は「ヤリデン城」とカタカナになっているが、「槍出城」「槍手城」「槍田城」などと書かれることもある。また、遺構なし、規模不明、時期不詳と分らないことだらけの城跡であるが唯一「一宮町むかしばなし」に城主として大隈鞍武の名が記されているらしい。山上部に登ってみると広い平坦地となっていた。雑木に覆われているため細部まで見て回ることは出来なかったが、「一宮町史」には戦後の食糧不足時代に開墾されたので土塁、堀などの城の施設は見られないとあるので、山上の平坦地形はその名残なのであろうか。

 ヤリデン城から国道151号を豊川市街方面へ1.5kmほど進むと長山地区である。JR飯田線と国道に挟まれた所に一宮東部小学校がある。その小学校の南側路地を入った所に真っ赤な鳥居とこれまた真っ赤な小さな社殿が建っていた。本宮山城跡である。資料にはこの裏側に堀跡が残っていることになっている。早速、裏手に回ってみると長さ10mくらいであろうか、堀跡があった。ただ、これだけでは城の全体像を想像することは難しい。
 ネット情報によれば小学校正門前に城主の石碑が建っているということである。たしかに石碑は建っていたが、この側にお住まいの御婦人が通りかかったので石碑のことを聞いてみた。碑面には「権田駒太郎」と彫られている。何やら弓道の名人であったそうな。城主云々とは関係ないとのことであった。

 次に向かったのは松平館である。ここも旧一宮町内の城館跡である。城主に松平兵庫助の名があることから松平館もしくは松平城というのであろう。遺構としては土塁が部分的に三ヵ所ほどに残っているだけである。城館資料では50m四方の館が復元できるとしているが、それを想像できるほどには残っていない。

↑ヤリデン城

↑本宮山城

↑松平館跡に残る土塁の一部
6月24日(日)曇/滝谷城(掛川市)
 梅雨の時期であり、曇天であったが嵐でもないかぎり、訪城目的となれば時間の許すかぎりは出掛けたくなる。

 今日の目的城は掛川市北部の滝谷(たきのや)城である。掛川城から真っ直ぐ県道39号を北上すると上西郷地区である。石畑の交差点の北側には美人谷(びじがや)城の城山が正面に見える。県道はこの城山の東麓を這ってさらに北上している。1.5kmほど進むと右手に滝谷城の城山が現れる。

 以前までは公園として整備されており、登城口の案内板も県道沿いに立てられていたようだが、何も見当たらない。ネット情報と地図で県道からの登城口はすぐに分かった。県道から中腹の広場まではコンクリで舗装された道が続いているが狭いうえに周りの草木が路上に迫っており、とても普通車での通行は無理であった。さほどの距離ではないので県道脇に駐車して徒歩で城址を目指す。

 中腹の広場からは人一人分の道幅でコンクリの道が設置されている。道はS字を描きながら山頂の城址へと続く。草が道を覆うように伸び放題だ。やがて城址を南北に分断する大堀切跡とされる所に出る。北側の曲輪に登ろうとしたが、道が途中で無くなっており、直登も難しそうであったのであきらめて南側の主郭へと向かう。主郭部は平坦に削平され、かなり広い空間となっている。かつては公園として活用されベンチ、祠などがあったらしいが、現況はそれらも見当たらず荒れ放題となっていた。公園としての維持は放棄されたものと見受けられる。

 ところで遺構であるが、これだと言えるものが見受けられない。私の見る目がないのかも知れないが、どうも漠然としていてしっくりこなかった。

 築城の時期や城主が誰であったのか、これも漠然としていてよく分らないようだ。この地域の土豪であった西郷氏や石谷氏に関連する城であったと言われているが明確なことは分らないのが現状である。

大堀切

↑主郭部分 荒れ放題

↑滝谷城遠景
5月19日(土)晴/尉ヶ峰城(浜松市北区)
 浜名湖の北側に連なる山々のひとつに尉ヶ峰と呼ぶ標高433mの山がある。奥浜名自然歩道が整備されており尉ヶ峰ルートも恰好のハイキングコースとなっている。奥浜名スカイライン(林道)を利用すれば尉ヶ峰南側直下まで車で行く事ができ、駐車場も完備されている。ここから徒歩20分ほどで山頂に至る。

 ところでこの尉ヶ峰であるが、城跡として知られているわけではない。城館資料にも載っていないのである。以前、大平城(浜松市浜北区)について調べた際に静岡県古城研究会発行の「古城49号」(2003年7月刊/幻の渋川大平城を求めて)に尉ヶ峰を千頭峯城とすることが書かれており、私もなるほどと思っていたしだいである。

 千頭峯城は南北朝期に遠江南朝を代表する井伊氏が本城である三嶽城の支城として築いた城で、三河国境近くの北区三ヶ日町にある。南朝方井伊氏の軍勢がこの城に立て籠もり、北朝方の幕府軍と熾烈な攻防戦を繰り広げたことで有名である。しかしながら城郭としての遺構は戦国期のものであることは明らかなのである。無論、それが南北朝期の城であることの否定にはならない。ただ、記録(瑠璃山年録残篇裏書)にある千頭峯城が三ヶ日町にある城山(現・千頭峯城)であるとは記されていないということを知っておくべきであろう。すなわち所在不明の城なのである。

 そんなわけで、「古城」所載の縄張図をもとに尉ヶ峰に登ったしだいである。尉ヶ峰城の呼称は私が勝手につけたものであるが、尉ヶ峰の名称そのものが城ヶ峰の転訛したものなのかも知れない。

 駐車場から登り始めてしばらく進むと急斜面の岩場となる。ロープが垂らされていて、それをつかんでよじ登る。「獅子落し」と呼ばれるところだ。気賀の領主近藤家の殿様が猟をした時に驚いたイノシシが転がり落ちたというところからこの名が付いたそうだ。この獅子落しを登りきると小さな削平地に至る。縄張図には出郭とある。
 出郭(南出郭とする)から尾根道を100mほど行くと二ノ郭である。東西に細長い平坦地である。その先が山頂の本郭である。東屋やベンチが設置され、イノシシの作り物まである。南側の眺望は良く、浜名湖と浜松平野が眼前に広がっている。本郭の西側には一段下がった位置に腰郭が確認できる。
 縄張図では二ノ郭から北へ尾根に沿って150mほど行くと出郭(北出郭とする)がある。ここには虎口と思われるような場所も記載されており、実見するためにそちらに向かう。虎口とされる場所は戦国期の山城のように土塁で整形されたものではない。岩場を利用したもののようであった。

 こうして実際に歩いてみると、戦国期の特徴を持たない、山城の初期段階の城跡として見ることができる。是非とも専門的見識を持った城郭研究者や愛好家の方々に訪れていただきたい所である。

↑獅子落しの難所

↑南出郭

↑本郭

↑北出郭の虎口とされる所
5月5日(土)晴/忍城(行田市)
 今日は今回の遠征の最終日である。しかしながら帰るための移動がメインであるから多くの訪城は望めない。渋滞多発地帯である首都圏を突破しなければならないのだ。午前と午後で上り下りの渋滞現象が逆転するのを狙って行くしかない。

 予測通り、午前の東北道上りは渋滞なしである。羽生ICで降りて忍城へ向かった。ここで時間を潰し、昼近くに出発する計画である。

 忍城は文明11年(1479)頃に成田氏によって築かれたと言われている。北条氏康や上杉謙信の城攻めにも耐え抜いたという堅城である。小田原の役では石田三成の水攻めを受けたが落ちず、小田原城の落城後に開城して面目を保ったことで有名である。小説「のぼうの城」の舞台になったことでも知られている城である。江戸期は松平信綱や阿部忠秋といった譜代衆が相次いで城主となって明治に至った。

 現在は本丸に郷土博物館が建てられ、それに付随して御三階櫓が再建されている。場所と規模は違うようである。遺構としては唯一土塁の一部が残されているにすぎない。

 忍城の南側5kmほどの所に石田堤史跡公園がある。石田三成が忍城の水攻めの際に築いた堤の一部が史跡として残されているのである。ついでながらそこに立寄る。広い駐車場が用意されているが車は私の車一台だけである。人出の多いGWにこのありさまである。この辺では三成の人気は低いのであろう。

 さて、正午近くになった。関越道から圏央道、八王子から中央道、そして東富士五湖道路を使って御殿場へと向かい、東名にて浜松へと向かった。渋滞なしで帰宅、まだ日暮れ前であった。

↑忍城・御三階櫓

↑忍城・土塁

↑石田堤
5月4日(金)曇/若松城(会津若松市)、二本松城(二本松市)、仙台城(仙台市)

 曇り空であるが、傘の必要はなさそうである。8時前に若松城の西出丸駐車場に到着。地元では鶴ヶ城と呼ばれて親しまれている。
 鶴ヶ城の前身である黒川城は芦名氏が至徳元年(1384)に築城したことに始まると言われている。戦国争乱の中で天正17年(1589)に芦名氏は伊達政宗によって滅ぼされてしまい、城は政宗の居城となった。しかし時代は豊臣秀吉の天下となってしまい、会津は蒲生氏郷に与えられた。城は氏郷によって大々的に築城し直され、この時に鶴ヶ城と名付けられたと言われる。その後、上杉景勝、加藤嘉明と城主が変わり、寛永20年(1643)に保科正之が城主となった。以後、保科氏が代々続き、三代正容以後は松平氏を称して明治に至った。
 西出丸からは梅坂と呼ばれる虎口から本丸に入ることになる。久しぶりの石垣の城である。本丸には五層の天守閣が訪れる人々を待っている。白漆喰を基調とした白い天守閣である。もちろん再建である。本来の天守閣は戊辰戦争で傷付き、戦後取り壊された。
 本丸内を一通り歩き回り、東の虎口から廊下橋を渡って三の丸へ出る。現在はテニスコートとなっている伏兵郭を覗いて再び本丸へ戻る。次は大手虎口から椿坂、そして北出丸へ向かう。再び本丸へ返して天守へ登閣する。内部は資料館となっている。そして売店となっている走長屋多聞櫓で資料を買い込んで外へ出る。
 市内には白虎隊関連をはじめとする史跡が多く残されている。また来たい所である。再来を誓って磐越道を東進して東北道へ出る。東北道を北上して二本松ICで途中下車だ。無論、目的地は二本松城である。

 二本松城は霞ヶ城とも呼ばれている。城山全体が整備されて公園となっている。三の丸枡形門である箕輪門が復元されて現在の二本松城の顔となっている。門前には二本松少年隊の像が建っている。少年隊必死の戦闘も空しく、城はわずか一日で落ちてしまった。
 この三の丸一帯に城館を構えて近世城郭の体裁を整えたのは寛永20年(1643)に移封されてきた丹羽氏である。それ以前は山城であり、本丸は山頂にある。創築は応永の頃(1394-1427)、奥州探題として下向した畠山氏の四代満泰によると言われている。天正13年(1585)、伊達政宗によって落とされたが、蒲生氏、上杉氏と持ち主が変わり、丹羽氏の入城となった次第である。
 山頂の本丸には三の丸から徒歩で登ることもできるが、車道も設けられていて本丸の側まで行ける。本丸には石垣が復元されているが、残念ながら昨年の大地震で石垣の一部が崩壊の危険にあるためか立ち入り禁止となっていた。

 再び東北道を北上して仙台をめざす。言うまでもなく、仙台青葉城が目的地である。
 仙台城は独眼竜伊達政宗の居城として有名であるが、政宗によって縄張されて完成したのは関ヶ原合戦後の慶長7年(1602)のことである。仙台藩は戊申戦役で奥羽列藩同盟の盟主となったが、相馬口の戦い後に降伏したために、城と城下は戦火に遭うことはなかった。しかし、明治、大正の時代に建造物の殆どが壊されたり火災などで失われ、唯一残っていた大手門や脇櫓も先の大戦で米軍の空襲によって焼失してまった。現在は石垣と堀の一部が残るに過ぎず、大手門跡に再建された脇櫓が建つのみである。
 車を三の丸の博物館駐車場に入れ、タクシーで山頂本丸へと向かった。時間短縮のためである。本丸は大変な人出である。GWならではのことであろう。政宗公の騎馬像の前では記念写真を撮る人たちでいっぱいである。売店で名物の牛タンの串焼きを食べて一服、下りは歩くことにした。仙台城も昨年の大震災で被害を受けていた。唯一復元された脇櫓も修復中であり、石垣も各所で立入できないようにフェンスが設けられていた。

 仙台城を出て、車を太平洋岸へと向けた。震災の際に津波に襲われた地域を見るためである。私の住む浜松も津波に襲われる地域なので、他人ごとではないのである。荒浜地区に立ち寄る。海岸線から1kmほどの一帯は建物の基礎だけが整然と残っている。かつて住宅街であったことを物語っている。瓦礫は片付けられているが、それだけに寂寞とした思いが高まってしまう。
 今日一日もった空も堪えられなくなったようで雨が降り出した。今夜の宿は白河である。

↑会津若松城・天守

↑会津若松城・廊下橋

↑二本松城・箕輪門

↑二本松城・本丸石垣

↑仙台城・本丸石垣

↑仙台城・脇櫓
5月3日(木)雨後晴/高田城春日山城御館(上越市)

 今回のGWは念願であった東北方面へ向かった。例年の関東・首都圏の渋滞を避けるために長野県を抜けて一旦新潟県へ向かい、そこから福島県に入るという計画である。今日は東名、東海環状、中央、長野、上信越と自動車道を乗り継いぎ上越高田ICで降り、高田城、春日山城、御館の三ヵ所に寄り、再び北陸道、磐越道を使って会津へと向かった。

 早朝、というより夜中2時に浜松を出発した。いつものように相棒はトモ坊である。天気はあいにくの雨である。長野県内では上がった雨も新潟県に入ると本降りとなってきた。この雨では山城の春日山城の登城は見送ることにして平城の高田城だけにしようと計画を変更した。

 高田城前の公園駐車場に到着。傘を差しての登城である。復元された極楽橋から本丸に入る。この城は近世城郭ではあるが、石垣の城ではない。土塁と土壇から成っている。そのために慶長19年(1614)3月から7月という短期間の工事で城は完成した。伊達、上杉、前田といった大藩による天下普請であった。城が完成した直後から天下の情勢は大阪冬の陣に向かって突入してゆく。
 高田城には天主閣は無く、本丸南西隅に建てられた三重櫓がそれに代わっていた。明治に取り壊されたが、平成5年に復元された。

 この三重櫓の内部見学を終えて外へ出ると到着時より空が明るくなり、雨も止んでいた。車に戻ると陽がさしてくるではないか。やはり春日山城に行くことにした。春日山城とは言うまでもなく上杉謙信の居城である。

 GW中はマイカーが規制されており、春日山山麓の上越市埋蔵文化財センターに車を入れる。ここからは市のシャトルバスで山を登るのである。バスは春日山神社横に建つ謙信公の銅像前まで私たちを運んでくれた。神社から本丸までは歩いての登城となる。青空が広がり初夏の日差しが新緑の山々を明るく照らしている。私は千貫門から直江屋敷跡を通り、毘沙門堂から本丸へと進んだ。気温が急激に上昇して蒸すような暑さになってきた。前面に日本海が広がり、背後には雪を頂く越後山脈の高峰が屏風のごとく関東との間に立ちはだかっている。

 再び謙信公銅像前に戻り、シャトルバスで林泉寺に向かう。林泉寺は謙信が少年期を過ごした寺である。山門に掲げられた謙信書の「第一義」の額は謙信自身の生き方そのものであると思った。林泉寺からシャトルバスは文化財センターに戻った。

 車に戻った私たちは謙信亡き後、越後を二分する乱の舞台となった御館跡に向かった。現在は宅地化されて当時の面影は無いが、主郭の一部が公園となって碑が建っている。

 さて、今日は会津へと向かわなければならない。上越ICから北陸道、そして磐越道に乗って会津若松ICで降りる。天気は雨である。明日の天気を気にしながらの市内一泊となった。

↑高田城

↑春日山城・謙信公の像

↑春日山城・毘沙門堂

↑林泉寺

↑御館
4月29日(日)晴/小瀬戸城(静岡市)
 2週間ほど前に静岡県内区間の新東名高速道路が開通した。工事期間中は第二東名と呼ばれていたものである。今日はこの新東名を利用して静岡市の小瀬戸城へ出かけた。
 東名浜松西ICから逆方向下りで三ヶ日JCTに向かい、ここから新東名で静岡へと車を走らせた。カーブとアップダウンを少なくした構造ということで大変走りやすい道路である。山間を貫通して建設されているため風景の変化に乏しいが、緊張感無く走れるためにいつの間にか静岡に到達していた、という感じである。
 めざす小瀬戸城址は静岡SA(NEOPASA静岡)のすぐ北に位置している。SAのスマートICから静岡方面に向かい、すぐに右折して新東名の下をくぐり抜け、左に行くと行き止まりとなる。3台ほどの駐車スペースがあり、ここから徒歩で進むとコンクリ階段が山頂の城址へ向かって続いている。このコンクリ階段は新東名建設によって設置されたものと思われる。城山の北先端部が新東名によって削られてしまったために工事以前の登城路が消滅したために設置されたのであろう。
 さて、この階段、300段はあるそうだ。いかに健脚といえども一気に登りきることは無理と思われる。当然、私などは途中幾度も息を整えながらの登城である。まずは北へ向かって登る。すると北の出丸と表示された踊り場に出る。新東名が直下に見える。階段はここから南東方向へ向きを変えて山頂へと続いている。登りきるとそこが二の曲輪である。西半分が茶園となっている。城跡の気配は感じられないが、本曲輪方向へと足を進めると堀切跡が現れる。あー、城跡だ。思わず笑みがこぼれる。堀切から本曲輪へ踏み入る。楕円形の曲輪かな。やはり、一部が茶園化している。城址碑と由来が彫られた石碑が建てられていた。資料には南東側に出曲輪が記されているが本曲輪の斜面から南東側にかけてはきれいに茶園化されており、地形は改変されているものと思われた。
 この小瀬戸城の歴史は南北朝期にはじまるようだ。南朝に心を寄せる駿河の武将狩野介貞長が居城である安倍城の支城としてこの小瀬戸城を築いたとされる。安倍城には宗良親王、興良親王が迎えられたと伝えられており、狩野氏は北朝幕府方の今川氏との抗争を続けた。結局は今川氏によって安倍城、小瀬戸城は落とされ、狩野氏は衰退してしまう。その後、ここ藁科庄は今川家臣の朝比奈氏の所領となった。永禄十一年(1568)、繁栄を続けてきた今川氏もこの年、ついに滅亡のときを迎える。甲斐武田氏の駿河進攻によって今川氏真は駿府を逃れて藁科路から遠江へと向かった。それを追う武田勢も藁科へ殺到したが、その際に小瀬戸城の守兵による激しい抵抗があったようだ。
 それから440余年後、城の直下に高速道路が建設され、数日かかって移動した距離をわずか数十分で往来できるようになった。便利な世の中になったものだが、ここで死にもの狂いで戦った城兵たちがいたことを忘れずにいたいものである。

↑北の出丸

↑整備された階段・大手道

↑堀切

↑本曲輪・城址碑
3月25日(日)晴/鯉山砦(浜松市北区)
 今日は午前中から所用があるのだが、晴天に誘われて出かけた。10時までには戻る予定で浜名湖北岸の三ヶ日へと車を走らせた。目的地は千頭峯城の南に築かれた鯉山砦である。

 千頭峯城の北側から山間の農道に入り、南下する。農道とは言っても立派な二車線の道路である。千頭峯トンネルを抜けたところに千頭峯城への登山者駐車場が設けられている。通常ならばここに駐車して歩くのだが、今日は時間がないので砦への登山口近くに路駐することにした。

 駐車場から600mほど南下すると林道との立体交差がある。ここを右へ入り林道を150mほど進むと右斜面の木に「鯉山砦順路→」の小さな案内板が取付けられている。ここから山に入るのだが、登山者用に路が整備されているわけではない。林道から直接山の斜面に取り付くことになる。初めて取り付くには少し勇気がいる。気合を入れて直登開始だ。何のことはない、20〜30mほど直登すると路らしき跡があり、自然と尾根筋に出ることができた。後は尾根伝いに西に向かうのみである。当然路は無い。雑木に覆われているが前進を阻むほどのことはない。途中、二ヵ所ほどピークがあるが砦跡はまだ先である。そろそろだがと不安になる頃、腰曲輪と本曲輪の法面が眼前に現れた。まるでジャングルの中に古代遺跡を発見したような、そんな気分である。縄張図通り主曲輪南側の中央に腰曲輪からの虎口が確認できる。そして主曲輪へと踏み入る。東西30mほどの楕円形の曲輪だ。南縁に土塁の痕跡が残る。主曲輪の西端から北側に伸びる尾根筋にも曲輪跡と堀切の痕跡が見られた。

 この鯉山砦は南北朝争乱期に南朝方の井伊氏の支城として足利軍と攻防戦を繰り広げた千頭峯城の支塁と位置付けられている。千頭峯城の南方視界を補うために構築されたとされているのだ。しかしながら現代の私たちが南北朝期の城の遺構を目にすることはほとんどないといえる。そのほとんどが戦国期に再び利用されるなどして改築されているからである。千頭峯城もしかりであり、この鯉山砦もしかりである。遠江と三河の境目を固めるために今川氏によって築かれたものと見られている。

↑千頭峯城登山者駐車場から見た鯉山砦

↑登山口の案内板

↑鯉山砦主曲輪の虎口
3月18日(日)曇/花倉城(藤枝市)
 以前から行きたかった花倉城へ登城した。天気予報では晴れ間が出るとのことであったので曇空であったが行くことにした。

 東名焼津ICから山間部を目指して北上、その昔に葉梨荘と呼ばれた山間の地に車を進めた。国道215号葉梨小学校北の信号を左折、200mほどで右折した後は北上するのみ。やがて池に突き当たる。ナビの道路案内もここまでである。ここからは花倉城への案内板に従って山道を登る。農道であるから道幅は狭いので注意が必要だ。それでも舗装してある分、まだましである。池から10分ほどで道が無くなる。そこが登城口となる。市指定史跡であるから説明板が立てられており、車も2台ほどなら停められる。

 ここからは歩きである。周囲の山並みを見ると山肌から水蒸気が上がって幻想的な景観をかもし出している。説明板の所から進むとすぐに一騎駆けの土橋である。そして大手曲輪である。ここから徐々に登り坂がきつくなる。肺活量の少ない私は少し登っては一息つくという苦しい登山となる。それでも山城の攻略はやめられないから、好きというのは不思議なものである。

 大手曲輪から上り詰めると堀切跡に至る。本丸(北側)と二の丸(南側)を区切る堀切だ。まずは二の丸へ立ち入る。円形の曲輪で周囲の一部に土塁跡が残っている。この二の丸から堀切を隔てて南側にも尾根上に曲輪が続いている。

 続いて本丸である。本丸は細長い曲輪となっており、ここからは藤枝から焼津にかけての市街地、そして駿河湾までが望見できる。本丸北端は一段高くなっており、物見台と名付けられている。さらにその先にも尾根上に出曲輪跡が見られる。

 この花倉城は後に駿遠三を従える戦国大名となった今川氏の初期、南北朝の頃に今川範氏が駿河守護として入国する際に拠点として築かれたものとされている。それからおよそ百年の後、天文五年(1536)の今川家の内紛の際にこの花倉城が登場する。花倉の乱と呼ばれるもので、当主後継をめぐる兄弟争いである。側室福島氏の子玄広恵探と弟ではあったが正室寿桂尼の子である梅岳承芳(今川義元)との争いであった。この争いで恵探が福島氏とともに挙兵して立て籠もったのがこの花倉城であったのだ。戦いは今川家中をまとめた承芳方の圧勝に終わり、恵探は山中を西に脱して瀬戸谷の普門寺で自刃した。

 その後、花倉城は歴史に登場することはなかった。利用されることもなかったのであろう。そのため、今川氏の山城の姿を今に伝えるものとして貴重な城跡となっている。

↑農道終点の登城口から見た花倉城

↑登城口からすぐに土橋が続く

↑本丸跡

↑本丸から駿河湾方面を展望
3月3日(土)曇/高代山砦西山城幡鎌城(掛川市)
 地元遠江国内の城館跡を見直すとまだまだ未訪城の城跡がかなりある。今日は掛川市の原野谷川沿いに点在する2城1砦の訪城に出かけた。

 東名袋井ICで降りて国1バイパスを掛川方面に進む。袋井市から掛川市に入ってすぐに北上すると細谷という所に出る。天竜浜名湖線いこいの広場駅の南300mほどのところに小さな島のように平地の中にポッコリと浮かんだような小丘がある。高代山砦と呼ばれるものである。

 この高代山砦の所在なのだが、県教委の城館資料「静岡県の中世城館跡」(1981)による場所と静岡古城研究会会員林隆平氏著「掛川の古城址」(1979)記載の場所が違うのである。「掛川の古城址」記載の砦址は現在は工場用地なのであろうか、平坦地となって丘そのものが消滅してしまっている。古墳であったようだ。一方の県教委記載の砦址はそこから300mほど北側の独立丘をさしている。こちらの方は採土や畑地となって変形しているようだが現存している。三分の一ほどが茶畑となっているが丘頂部は三つの曲輪で構成されているようだ。県教委の説明は「主郭(この砦)の南側には古墳群があり、曲輪としての施設はないが、利用されたであろう」としており、「掛川の古城址」記載の砦跡は単なる墳丘と判断したようだ。
 ところでこの砦、誰がいつ築いたものなのか。鎌倉以来原野谷川流域に根付いた原氏の出城であったと言われているが、確たるものではないらしい。

 続いて向かった所は高代山砦の西北約3kmにある西山城である。袋井市との市境に接する吉岡原台地北端に位置しており、吉岡城とも呼ばれている城跡である。この城も築城時期に関しては定かではない。築城者に関しても飯田氏(飯田城/袋井市)の出城であったとか、原氏の祖工藤氏の城であったとか言われており、確たるものではない。そもそも原氏は平安時代からこの原野谷川流域に土着した一族であり、鎌倉時代には地頭としてこの地を領して戦国期に至るという長い歴史を持っている。西山城が原氏領域の西側境界上に築かれていることを考えると、やはり原氏の城のひとつであったと見るのが妥当かと思われる。

 さて、西山城への登城である。資料は県教委のそれと「掛川の古城址」記載の縄張図のみである。何れも30年ほど前のものだ。ネット上でも登城者は見当たらない。地形図から判断して目前の山、といっても比高は20mあるかないかである。とりあえず主郭とされる方向へ向かう。主郭とされる山腹は茶畑となってなだらかな傾斜地に改造されて頂上部まで続いていた。主郭平坦部は消滅したものと思われ、原型を想像することは難しいだろう。この主郭跡の南側は地形が落ち込んで谷間となっている。資料には大堀切とある。茶畑の縁を廻って谷間に降りる。昨日の雨で地面は泥んこ状態だ。パイオニアって大変なんだよな、などとつぶやきながら谷間から今度は南側の斜面に取り付いた。無論、道などない。足場の良さそうな所を見つけてよじ登るほかない。といっても4〜5mほども登れば平坦面に出る。二の曲輪、三の曲輪とされるところである。こちらの方も戦国期のままというわけでもなさそうである。現在は雑木林となって人の入り込んだ形跡はないが、多少は地形改変の痕跡がが見受けられる感じがした。

 この西山城の北北東1.5kmに幡鎌城という城跡がある。最福寺の裏山が城跡であり、寺の門前地域が館跡とされている。館跡の方は宅地となって遺構は消滅と言っていいだろう。築城者とされる幡鎌氏については今川義元の感状や今川氏真の裁許状などにその名が記されている程度で具体的なことは分らない。

 寺の駐車場に車を乗り入れ、さっそく登城開始である。寺の裏山の中腹までは墓苑となっている。そこからは路は無いので高みに向かって直登する他ない。とはいえ、緩やかな傾斜地となって、木も生えていないので楽である。将来の墓地増加に備えて造成されたものと思われる。山頂部は山林雑木林である。再び、泥と枯れ枝と落ち葉を踏みしめながら城址探索だ。この時期、蜘蛛の巣が無いのが唯一の救いだ。墓苑から登ると自然に主郭西側からの攻略となる。まずは堀切とも横堀とも受け取れる切通しのお出迎えだ。参考にする縄張図が無いので、ここから東へ向かって高みを目指す。山頂の主郭部分は完全な削平地とは言えないものの、円形の曲輪と見られる。土塁は無い。この主郭跡から東側尾根上には二段ほどの曲輪が連なっており、その間には浅いながらも堀切跡が見られた。
 私のような単なる城好きにはこの程度の見分しかできないが、今後はハイレベルの城郭愛好家にも登城していただいて専門的な分析を期待したい城跡である。

↑高代山砦

↑高代山砦二の曲輪から南を展望

↑西山城 矢印左から二の曲輪、大堀切、主郭である

↑西山城 二の曲輪

↑幡鎌城 高みに向かって直登

↑堀切のような切通し

↑主郭から東尾根にかけては段々になっている
2月18日(土)晴/持舟城(静岡市)
 例年より冷え込む日が続いているが、家に籠っているのも勿体ない晴天である。今日はぶらりと東名高速を東へ向かい、武田の水軍城となった持舟城へ登城した。

 焼津ICで東名を降り、国道150号を静岡方面へと向かう。日本坂のトンネルを抜けると城のある用宗の町である。用宗の名は城の名でもあり、港を意味する持舟が転訛したものだと言われており、現在でも用宗は漁港の町でもある。
 東海道線用宗駅の北側に大雲寺という禅刹がある。ここは持舟城の搦手口にあたり、見取図には館跡となっている。平時における城主の居館が置かれていたのであろうか。車をこの寺の駐車場に置いて登城開始である。登城口はこの寺の裏手からも山路が城跡へ通じているようだが、ここは無理をせずに諸先輩方の登城経路に従って行くことにする。

 大雲寺から線路沿いに北東へ200mほど行くと浅間神社がある。神社左角に「城山観音道」の石碑が建っており、この道を登って行く。この道は組合員以外は使用禁止の農道だそうであるから、車での進入は控えたほうがよさそうだ。この舗装された農道を250mほど登ると山肌に階段が設けられている。ここからは山路となり、5分ほどで山頂に至る。本曲輪である。
 以前、本曲輪には観音堂が建っていたようだが、現在は撤去されて石灯篭二基が残るのみである。本曲輪の北側には腰曲輪が確認できる。土塁などの遺構は無いが、何といってもここからの眺望は素晴らしい。紺碧の空と陽の光を受けて輝く駿河湾。そして霊峰富士の美しい姿には城好きならずとも誰しもが感動する景観である。
 この城の遺構のひとつである大堀切が二の曲輪との間にある。堀切の底に降りる路は整備されてないので気を付けなければならない。堀底の西側にはフェンスに囲われた一画がある。井戸曲輪だそうだ。雑木に覆われて、中の様子がよく分らなかった。続いて二の曲輪に上がる。無論、路など無い。足場の良さそうな所を探してよじ登るしかない。情報通り、そこは蜜柑畑となっていた。再び堀底に降りて本曲輪に戻る。

 この城は今川氏が駿府防衛のために築いた支城であったらしく、今川重臣関口刑部親長が守っていたらしい。親長の娘瀬名姫(築山殿)は徳川家康(当時松平元信)に嫁いだことで知られる。永禄十一年(1568)に武田信玄の駿河進攻によってこの城は武田のものとなった。この時の城主は一宮出羽守であったと言われ、城兵とともに討死したとされる。その後は武田水軍の将、向井伊賀守正重が城主となった。水軍とは言っても主要な任務は高天神城への補給物資の海上輸送であった。このため天正七年(1579)には徳川家康によって激しく攻め立てられている。この戦いで向井正重以下数百の将兵が城と運命を共にしたと伝えられている。翌年、武田勝頼は朝比奈駿河守を城主にして城の守りを固めた。天正十年(1582)、甲州攻めの大軍を率いる家康に再び攻められ、朝比奈氏は戦わずに城を明け渡して退却してしまった。その後家康は廃城を決め、戦国持舟城の幕は下りた。

 帰りに用宗公民館前の城山烈士供養の城山地蔵尊前に立寄った。これは天正七年の戦いで討死した向井伊賀守と城兵たちを祀った慰霊のための供養塔なのである。

↑農道と登城路の階段

↑持舟城本曲輪

↑本曲輪から眺めた富士山

↑堀切

↑城山烈士供養塔
2月4日(土)晴/桶狭間古戦場(豊明市、名古屋市緑区)、沓掛城(豊明市)、村木砦(東浦町)、緒川城(東浦町)、刈谷城(刈谷市)

 久々の尾張の城攻めに出かけた。ほぼ一年ぶりである。前回に引き続き、桶狭間合戦がらみの史跡探訪である。例の如く早朝発で桶狭間古戦場跡に着いたのは8時前であった。一昨日来の寒波で外気温は-3度である。とはいえ北国の豪雪を思えば、東海に住む私たちは雪に悩むこともなく、その点では恵まれていると思わなければならないだろう。

 桶狭間古戦場跡といっても、その碑が建てられて史跡とされている所は二ヵ所あるのだ。
 まずはそのうちの一ヵ所、名古屋市緑区の桶狭間古戦場公園に立寄った。ここには「桶狭間古戦場田楽坪」の碑が建てられ、ジオラマ風に合戦当時の城や砦の位置などが園内に再現されている。また、「今川義元戦死之地」碑、織田信長と今川義元の銅像などもある。

 公園の南に大池と呼ばれる池があり、その東側池沿いの道端に「瀬名伊予守氏俊陣地跡」の碑が建っている。説明板には、瀬名氏俊隊約二百名が先発隊として着陣…大将今川義元が十九日に昼食する時の本陣の設営をしました、とある。
 そして池の南側のJA前に「戦評の松」と呼ばれる史跡地が保存されている。説明板には瀬名氏俊がここにあった松の根本に部将を集めて戦の評議をしたとある。しかし、地内に建つ石碑には今川義元公戦評之松と彫られている。無論、現在の松は当時のものではない。

 もう一つの桶狭間古戦場跡である豊明市の高徳院へ向かう。緑区の古戦場跡の東北1kmほどのところである。田楽狭間と呼ばれた場所らしい。車を高徳院の駐車場に入れ、まずは境内を散策した。
 私と相棒のトモ坊にとっては懐かしいお寺である。昭和59年(1984)9月の残暑が厳しい日、私たちは無謀にもここの住職さんに桶狭間合戦に関するインタビューを申し入れ、カセットテープ持参で訪れたことがあるのだ。外は猛暑であるのに本堂には涼風がゆっくりと流れていて気持ちがよかったことを覚えている。この当時は今では通説となりつつある信長正面攻撃説が論じられ始めたころである。それまでの迂回奇襲説を覆すものであったので、住職にこの事を聞いた。住職は正面攻撃説を言下に否定されたことを今でも鮮明に覚えている。

 この高徳院には「今川義元公本陣跡」の碑と今川義元仏式の墓碑、遠州二俣城主松井宗信の墓がある。山門前の道路の向かい側には「桶狭間古戦場趾」の碑が建つ小公園が整備されている。ここには今川義元の墓や様々な石碑が建てられており、国指定史跡にもなっている。

 桶狭間合戦のその日、今川義元が進軍を開始したのが沓掛城である。古戦場の東北東約4kmのところにある。
 現在は城址公園として整備され、駐車場も設けられている。この城は近藤氏歴代の居城で、築城されたのは応永年間(1394-1428)ということである。天文二十二年(1553)に今川方へ寝返った鳴海城主山口教継に攻められて近藤氏は今川に属することになった。桶狭間合戦の前日、今川義元はこの城に入り宿泊した。

 桶狭間合戦に至る前、今川の尾張攻略は信長の父信秀の死を機に始まっていた。とくに三河国境に近い尾張の武将の調略や攻撃が続けられた。緒川城の水野氏も今川の攻略を受けることとなり、今川勢は村木砦を築いて機をうかがった。
 沓掛城址から車を南に走らせ、知多郡東浦町の村木砦跡へ向かった。天文二十三年(1554)一月に織田信長は水野信元の依頼を受けて出陣、村木砦を攻め落とした。この時の戦死者の鎮魂を願って元亀二年(1571)に創建されたという八剱神社に「史蹟村木砦址」の碑が建てられている。当時は海に面して築かれていたのだが、現在では宅地や畑が広がっている。この周辺が海であったとはとうてい想像もつかない。砦跡そのものも宅地となっており、本丸の中央部分が空地のようになっているだけである。

 水野氏の緒川城は村木砦の南約2kmのところである。国道366号を南下して東浦町役場の駐車場に車を入れた。城址全域が宅地となっており、土塁の一部が史跡として残されているにすぎない城跡である。その土塁跡は住宅地の路地を入った場所にあるので役場駐車場に車を置いたしだいである。ここから徒歩400mほどの距離である。緒川城は家康の母於大の出生地でもある。また、役場の西500mほどには乾坤院という寺院があり、ここに水野氏四代の墓所がある。

 緒川城址の東1kmには境川が衣浦湾にそそいでいる。境川とは尾張と三河の境を画する川なのである。この川を渡ると刈谷市である。ここの刈谷城もまた水野氏の城なのである。
 まずは刈谷市郷土資料館に立寄ることにした。何か資料があればと思ったからである。館内には刈谷城の復元鳥瞰模型が展示されていたが、あとは民俗資料的なものばかりであった。
 資料館を出て城址へと車を向けた。すぐ近くである。城址は亀城公園として整備されている。本丸跡とその北と東に堀が残されている程度である。本丸内南側では発掘調査が行われていた。本来の城址遺構が復元されると良いのだが…。刈谷城は江戸期には刈谷藩の藩府として続き、明治を迎えた。

↑桶狭間古戦場公園の織田信長(左)と今川義元(右)の像。

↑戦評の松

↑高徳院

↑桶狭間古戦場伝説地(国指定史跡)

↑沓掛城址

↑村木砦址(八剱神社)

↑緒川城址

↑刈谷城址
1月3日(火)曇後晴/堀越御所北条氏館守山城蛭ヶ小島江川邸韮山城(伊豆の国市)、長浜城(沼津市)

 早朝5時に東名高速に乗って伊豆を目指したが、案の定、車の量は多い。街は寝静まっているというのに高速上だけは別世界である。平均60km/hほどの流れに乗って進むほかない。
 目的地は伊豆の国市の韮山である。今日はここを中心に城館めぐりをする。ここには鎌倉から江戸期にかけての史跡が点在している。源頼朝の配流地である蛭ヶ小島、そして頼朝を援けた北条氏の館跡、頼朝旗揚げの最初の戦いとなった山木館跡がある。室町期には堀越公方の御所が置かれ、後の北条早雲の伊豆討入りの舞台になった。戦国期には後北条氏が拠城とした韮山城やその支城守山城が存在する。江戸期には江川氏が伊豆の代官として明治に至り、その屋敷が現存している。

 8時頃、最初の訪問地である堀越御所に着いた。ここは「伝堀越御所跡」として国指定史跡となっている。発掘調査後は埋め戻されるため、現況は単なる平地で遺構を目にすることはできない。発掘では池、鑓水、井戸などが検出されたが建物跡の検出が不十分なようで発掘調査はこの後も続けられるようだ。
 この御所跡の道路を挟んだ南側に「尼将軍北條政子産湯之井戸」の石碑が建っている。堀越御所はかつての北条氏館跡に建てられたと言われているのである。肝心の井戸は石碑の所にはなく、そこから50mほど南の路地の突き当りにあった。
 北条氏館跡として発掘調査された場所は御所跡から西に進んだ狩野川沿いにある。距離は至近である。ここも埋め戻されたために単なる平地になっている。ここで発見された小さな水晶玉が江川邸隣接の韮山郷土資料館に展示されている。政子さんのものであったのだろうか。

 そしてこの北条氏館の裏山が守山城址なのである。この城がいつ頃から城郭としての機能を有していたのかは定かではないが、延徳三年(1491)の伊勢新九郎による堀越御所急襲に際して公方足利茶々丸がこの山上に立て籠もったと伝えられているから、粗末ながらも詰城として利用されていたのであろう。その後、後北条氏の時代になって韮山城が整備されると守山城はその支城として手が加えられたようである。そして豊臣秀吉の小田原征伐の際には韮山攻城の豊臣方が陣城として布陣、さらに手を加えたものと見られている。
 現在は守山西公園として山上に至る遊歩道が整備されており、主郭部には展望台が建てられている。9時近くではあったが、曇り空で薄暗く、気温も低いためにまだ早朝の雰囲気のなか、登城を開始した。この遊歩道は西曲輪を経て主郭に至る、最も整備された登城路であるがその分、遺構も少なからす破壊されているように思われた。登城開始後すぐに、右手にかなり広い曲輪が二段削平されている。兵の駐屯地であったものか。ここから登城路は急な登り坂となり、丸太式の階段が整備されている。西曲輪群を経て主郭まで階段続きである。主郭といっても広さは全くない。物見櫓程度のものしか建てる空間はない。ここから東曲輪群の方へ向かう。こちらは堀切が残っていて尾根筋に設けられた小さな曲輪群の様相が感じられる。再び主郭に戻り、北曲輪方向へ向かうとすぐに展望台が建っていた。たしかに眺望はよい。快晴であれば富士山がすばらしい姿をみせてくれるはずだ。
 守山城の東山麓に願成就院がある。守山城を下山してそこへ向かった。願成就院は頼朝の奥州征伐の成功祈願のために北条時政が建立したのに始まる。境内には時政の墓があり、茶々丸の墓もあるというので立寄ってみた。

 次は蛭ヶ小島だ。御存知のとおり、頼朝が流人となって成長した所である。現在は公園化されて頼朝にちなむ石碑が多く建てられている。当時は狩野川の流路変遷によってこの周辺は湿地帯であり中州が島のように点在していたといわれ、蛭ヶ小島はそのひとつであったようだ。ただし、この公園の場所に頼朝の配所が建てられていたのかは定かではない。ともかく二十年近くをこの配所で過ごした頼朝は治承四年(1180)に平家追討の令旨を受けて挙兵に踏み出したのである。

 続いて江川邸へと車を向けた。江川邸は幕末に台場建設などで活躍した江川太郎左衛門英龍の屋敷跡として有名である。しかしながら江川氏の韮山における歴史は古い。平安後期、保元の乱で上皇方に付いた六代親治が戦に敗れてこの地に落ち、定住したのにはじまるという。無論、頼朝の平家追討にも参戦した。戦国期には後北条氏の家臣となり、韮山城の城地を提供したという。後北条氏が滅びると徳川家康に仕え、伊豆代官として幕末に至ったという長い歴史を持っている。と同時にこの屋敷も幾度かの修築を繰り返しながらも保元の乱後からこの地に在り続け、主家の柱の一部はその当時のものというから驚嘆の極みである。
 ところでこの江川邸、大河ドラマ篤姫のロケに使われていた。主屋の表玄関口は篤姫が江戸に向かう際の島津屋敷を出て行くシーンに登場していた。ドラマの情景が思い出されて感激してしまった。
 江川邸を出て、そのまま東の住宅地の路地を歩いて行くと、頼朝が挙兵最初に襲撃目標にした山木判官平兼隆の館跡がある。あるといっても宅地化して遺構などはなく、この辺の高台がそうだ、という程度である。そしてさらに東へ行くと香山寺という平兼隆開基の寺がある。ここには頼朝らによって討取られた兼隆の立派な供養塔が建てられている。

 再び江川邸の駐車場に戻り、カメラの電池を交換した後にそのまま歩いて韮山城址へ向かった。江川邸付設の韮山郷土資料館の脇を通って城池に出る。城池の西側の小高い山が韮山城である。わずか三千余の兵で四万以上の豊臣軍を相手に3ヵ月持ちこたえたとはとても思えない小さな城である。しかしながら早雲は伊豆討入り後この城を築いて後、生涯この城を居城とした。小田原に進出してからも自身は韮山城に在り続けたのである。余ほどこの城に愛着をもっていたのだろう。
 城池の土手に沿って進み、山裾に至ると、そこが城址の入り口である。枡形状の空堀跡が通路となって登ると右手に土塁に囲まれた三の曲輪がある。ここが城内最大の曲輪であり、現在は韮山高のテニスコートが設置されている。反対の左手に進むと権現曲輪である。ここも北側には土塁が廻っており、その上に櫓台であったのだろうか、そこには熊野神社の小さな社が建っている。
 続いて二の曲輪へ向かわなければならないのだが、工事中立入禁止でとうせんぼのロープが張ってあるのだ。どうやら登り路の階段を造り変えているようなのだ。もちろん正月休みで工事などやっていない。しかも人っ子一人いない。えい、ここまで来て退却してなるものか。とロープをまたいで二の曲輪へと向かった。丸太式階段を設けるための工事である。工事を休んでいるのであれば、開放しても危険とは思われないほどである。
 二の曲輪もそこそこの広さがある。そして堀切跡を越えて本郭へと進む。本郭からさらに尾根は南に伸びているのでそちらに向かう。城址南端にあたり、南曲輪と呼ばれる所である。ここには方形に土塁で囲まれた一画がある。塩蔵と呼ばれている。煙硝蔵とも言われている所だ。

 韮山城を後にして、ついでに江川英龍が大砲製造用に建設した反射炉へ寄り路してから車を西に走らせた。20分ほどで海に出る。内浦湾と呼ぶ入り江である。ここに後北条氏の水軍城が築かれていた。長浜城がそれである。
 天気も晴れてきて気分も上々である。長浜城址は内浦湾の南最奥部に突き出た小さな岬上に築かれており、国指定史跡となっている。城址の東側直下に釣堀センターがあり、その有料駐車場がある。城の見学者のための駐車場も兼ねているようで、こちらの場合は無料である。国指定になったこともあって一応トイレや城に関する説明板が備えられている。駐車場入り口に赤い鳥居があり、そこが登城口となっている。見学者用に造られた階段が備えられており、三の曲輪まで楽に上がることができる。ところが、そこから先は工事中のために立入禁止のバリケードとタイガーロープが張ってあるのだ。無論、工事はお休みで誰もいない。自己責任の覚悟を決めてロープを跨いで散策開始だ。二の曲輪や一の曲輪には杭が何本も立てられており、近い将来建物が建設されるようだ。堀跡もコンクリで固められつつある。観光用の水軍城が再現されるのであろう。なるべく遺構を崩さぬようにしてもらいたいものである。

 長浜城を降りて車に戻る。時間は午後2時近くになっていた。帰りの高速も渋滞必至であるので、帰途に就く。その前にすきっ腹を満たそうと、沼津港に寄り路だ。ここで新鮮な海鮮丼をいただいてから渋滞の高速をのんびりと家路についたしだいである。

↑伝堀越御所跡

↑北条氏館

↑守山城 主郭

↑守山城主郭へと続く遊歩道

↑蛭ヶ小島公園の石碑

↑江川邸 主屋

↑韮山城 権現曲輪

↑韮山城 塩蔵

↑韮山城 二の曲輪と堀切

↑長浜城 一の曲輪

↑長浜城 二の曲輪

↑長浜城から見た内浦湾