春日山城
(かすがやまじょう)

国指定史跡、百名城

新潟県上越市中屋敷


▲ 春日山城は「義」に生きた戦国武将上杉謙信の居城であった
山城である。謙信の城主時代には戦乱の場になることはなかったが、
城郭としての整備は続けられていたという。(写真・春日山城本丸跡)

「義」第一の武将

 春日山城は言わずと知れた義の武将、越後の虎と呼ばれた上杉謙信の居城である。築城の時期は明確ではないが、謙信から六代遡った長尾高景が最初に春日山を要害としたと言われ、南北朝の末期頃のことである。

 春日山城が戦国期の山城として強化されたのは謙信の父長尾為景によってであると言われている。長尾氏は越後守護上杉家の守護代を代々受け継いできたもので為景の代に至り、ついに守護上杉房能を討ってその養子上杉定実を擁立して傀儡としてしまった。、まさに下剋上を体現した武将であったといえる。

 天文五年(1536)為景は隠居して嫡男晴景が春日山城主と越後守護代の地位を継いだ。しかし、晴景は穏健、温厚な性質(病弱であったとも言われる)であったようで、戦国の荒波を乗り越え、自立心旺盛な諸豪を手なずけるのにはあまり向かなかったものと思われる。そこで反抗的な中郡(越後中部)の諸豪を押えるために、天文十二年(1543)八月に元服したばかりの弟景虎(後の謙信)を栃尾城に派遣した。

 景虎(十五歳)の働きは目覚ましく、天文十三年(1544)には栃尾城に攻め寄せた反乱軍を制圧、天文十四年(1545)に春日山城に攻め込んだ黒滝城主黒田秀忠を滅ぼすなどして武威を示すと、反晴景勢力が景虎のもとに参じて国内はただならぬ状況となった。

 天文十七年(1548)、景虎を守護代に擁立しようとする動きは最早止めようもなく、ついに守護上杉定実の仲介によって晴景は隠退に追い込まれ、景虎が春日山城主となって守護代となった。

 以後、天正六年(1578)三月に死去するまでの三十年、景虎(この後、上杉政虎、輝虎、謙信と改名する)はこの春日山城を起点として関東へ、信濃へ、越中へとその駒を進め、まさにその生涯は東奔西走の日々であったといえる。

 天文十九年(1550)、守護定実が後嗣のないまま死去。将軍足利義輝によって景虎は越後国主を認められた。

 天文二十一年(1552)、景虎は後北条氏に追われた関東管領上杉憲政を越後に迎えた。これ以後、関東への出陣が繰り返されることとなる。

 時を同じくして北信濃を武田氏に侵された小笠原氏や村上氏が景虎に援けを求めてきており、この後に川中島における戦いが五度にわたって繰り返されることとなる。

 永禄三年(1560)には越中の椎名氏からの救援要請を受けて出陣、富山城を落とす。

 この年、景虎は関東へ出陣して厩橋城を落として越年、年明けとともに武蔵、相模へと進撃して小田原城を攻めた。この間に鎌倉に於いて上杉憲政から関東管領職を譲られてこれを相続し、上杉政虎と名乗った。

 この後も北条氏康と武田信玄の二人を敵にした戦いが関東、北信(川長島古戦場)で激しく繰り返された。

 永禄十一年(1568)、武田信玄の駿河進攻によって甲相同盟が破綻、翌年には越相同盟が成り、謙信は越中への進攻を本格化させた。

 元亀三年(1572)、北条氏康死去して後を継いだ氏政は再び武田と同盟して謙信に敵対した。翌年、信玄没。謙信は関東への出撃を続けながらも越中の一向一揆との戦いに集中、天正四年(1576)に至って越中を平定し終えた。

 この頃、謙信は足利義昭の信長討伐の要請を受けて上洛のために天正四年十一月、能登へ進撃して七尾城を囲んだ。

 天正五年(1577)、関東からの救援要請により謙信は一旦帰国する。しかし上洛を急く義昭の求めに、再び能登へ出陣して七尾城を落とした。同時に柴田勝家率いる織田勢が能登に進撃、手取川を越えた。謙信は直ちに南進してこの織田勢を撃破して驕れる信長に鉄槌を下した。

 手取川の戦いで勝利した謙信は一旦春日山城へ凱旋して軍勢の立て直しと大遠征に向けての準備に取りかかった。目的は言うまでもなく武力上洛を果たし、織田信長を討伐することであったと思われる。

 出陣の予定は翌天正六年(1578)三月十五日であったと言われているが、その六日前の九日、謙信は春日山城内で突然倒れた。そして十三日、死去。享年四十九歳。その一生は戦いの生涯であったといえる。しかもその戦いのことごとくが私利私欲に発するものではなく、今まさに滅びんとする弱者の助けに応じたものであった。まさに「義」を第一として生き抜いた稀有の武将であったといえる。

 謙信の死の直後から甥で養子となっていた景勝と後北条氏から養子となっていた景虎との間で相続争い(御館の乱)となったが、いち早く春日山城を占有した景勝が勝利して当主となった。信長の死後は羽柴秀吉に臣従して混乱状態にあった越後国内を平定、天正十七年(1589)には佐渡も平定、信濃川中島と出羽庄内を合わせて九十万石となった。その後、小田原征伐、朝鮮の役に出兵、文禄四年(1595)には豊臣家の五大老に任ぜられた。

 慶長三年(1598)、景勝は会津百二十万石に加増転封となって春日山城を去った。

 上杉氏の後、春日山城には堀秀治が四十五万石で入った。慶長十二年(1607)、福島城の完成により移転して春日山城は廃城となった。


春日山神社近くに建つ上杉謙信公の銅像。

▲春日山城鳥瞰図。
 ▲ 上越市埋蔵文化財センター前の上杉謙信公の像。
▲ 春日山神社。明治二十年(1887)頃、旧高田藩士小川澄晴らによって創建された。祭神はもちろん謙信公である。

▲ 春日山神社側から登ると千貫門跡に出る。

▲ 千貫門跡の奥に残る空堀。石標には塹壕址とあった。

▲ 直江屋敷。上杉景勝の腹心直江兼続の屋敷跡である。

▲ 毘沙門堂。謙信が出陣前に戦勝を祈願したところ。

▲ 本丸の城址碑。

▲ 本丸から東方を展望。日本海と上越市街が眼下に広がる。

▲ 本丸東側直下の二の丸。

▲ 三の丸に隣接する米蔵跡と土塁。

▲ 三の丸。上杉三郎景虎の屋敷があった所である。

▲ 再び謙信公の銅像。

▲ 林泉寺山門。謙信は七歳の時から林泉寺六世天室光育の厳格な薫育を受けて育った。

▲ 林泉寺山門に掲げられている「第一義」の大額。謙信の生き方はこの一語に尽きるといえる。

▲ 林泉寺境内にある上杉謙信公の墓。天正六年(1578)没、享年49歳であった。

----備考----
訪問年月日 2012年5月3日
主要参考資料 「別冊歴史読本・上杉謙信の生涯」」
「春日山城めぐり・上杉謙信公をしのんで」他

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