永正十七年(1520)に婦負郡・射水郡の守護代であった神保慶宗が守護畠山氏に対する下剋上の争いに敗れて自刃した。その後、没落した神保家の再興に尽力したのが慶宗の嫡男長職であった。天文十二年(1543)、長職は一向一揆勢とも結んで神通川以東への進出を目論み、その拠点として富山城を築いたのであった。
築城にあたり、長職は家臣水越勝重に工事を担わせたと言われている。縄張りは神通川を搦手とし、他の三方を二重の堀で囲み、周囲には家臣団屋敷が構えられて城の防御性を高めていたことなどが「富山之記」に記されているという。
この神保長職の進出により越中東部新川郡の守護代椎名長常(この当時は越後長尾為景が新川郡の守護代となっていたから正確には椎名氏は又守護代となる)との抗争が激化した。この争いは国内の国人衆も両派に分かれて戦うことになり「天文の大乱」と呼ばれた。この戦いは翌天文十三年(1544)に能登守護畠山氏(七尾城)の仲介によって終息をみたが、長職の支配は常願寺川辺りにまで拡大して神保氏の最盛期を示すことになった。
永禄二年(1559)、長職は椎名氏への攻撃を再開した。これが、椎名氏を庇護する長尾景虎(上杉謙信)の出兵を招くことになり、翌三年(1560)に長職は富山城を追われてしまう。
その後、長職は増山城(砺波市)を拠点に武田信玄と結び、執拗に椎名氏攻略を続けた。このため、永禄五年(1562)に二度の上杉輝虎(謙信)の進攻を受けてついに降伏させられてしまう。
ところが永禄十一年(1568)に椎名氏が武田方に寝返り、謙信に追われてしまったのである。長職はこの機に上杉方につくことにした。しかし、この行為が家中を二つに割ることになり、長職は嫡男長住ら反上杉派を弾圧するのである。長住はやむなく出奔して後に織田信長に仕えることになる。
永禄十二年(1569)、富山城は椎名氏を追った上杉氏の支城となる。元亀二年(1571)、長職が再び反上杉となり、次男長城に家督を譲ったが、ほどなくして没したものと見られている。
元亀三年(1572)、武田氏と結んだ加賀一向一揆に富山城が占拠される。翌天正元年(1573)、謙信、出馬して一向一揆勢を富山城周辺から駆逐した。さらに一向一揆勢は信玄死去により謙信と和して兵を退くことになった。
謙信は、天正四年(1576)には越中をほぼ平定して富山城には家臣小笠原長隆、上杉信定らを城番としたとされている。翌五年(1577)には能登を平定したが、天正六年(1578)に急逝した。
謙信の死去を知った信長は直ちに神保長住を含む織田勢を飛騨経由で越中へ進出させた。長住らは国人を味方に付けつつ越中平定を進め、天正八年(1580)には越中東部へ進出して富山城を奪還した。天正九年(1581)、佐々成政が信長の命により越中へ封ぜられると長住はその麾下となる。
天正十年(1582)、富山城が上杉方に通じた旧臣小島職鎮らに襲われ、長住が城内に捕らえられるという事態が起きた。柴田勝家ら織田勢の魚津城攻めの背後を突いた一挙であったが直ちに織田勢の反撃によって奪還された。長住は責を負わされて追放処分となり、佐々成政が富山城主となった。
その後も魚津城をめぐる上杉勢との戦いは続き、本能寺の変後も成政は上杉勢を警戒して動けなかった。引き続き、成政は越中平定に忙殺されたが、その間に天下の形勢は変わり、やがて羽柴秀吉の追討を受けることになる。この間に厳冬の北アルプスを踏破して浜松城の徳川家康に挙兵を促したという「さらさら越え」は有名である。
天正十三年(1585)、佐々成政は秀吉郡十万の大軍に迫られ、剃髪して降伏した。富山城は秀吉の命で破却となった。
文禄四年(1595)、成政の旧領新川郡(越中東部)が前田利家に与えられ、越中は前田氏の所領となる。慶長二年(1597)に前田利長が一時、富山城に入城したが家督相続により翌年には加賀金沢城に移り、重臣前田長種らが城代となったという。
慶長十年(1605)、利長は隠居して再び富山城へ入り、大規模な改修工事がなされた。しかし、慶長十四年(1609)に大火により富山城が焼失してしまう。利長は射水郡関野に移って高岡城を新築して居城とした。焼亡した富山城には家臣津田義忠が城番となり、元和元年(1615)には一国一城令により廃城とされた。
それからしばらくして寛永十六年(1639)に三代藩主(金沢城)前田利常が次男利次に十万石を分与して越中に立藩させた。利次は廃城となった富山城を仮居(富山周辺は加賀藩領であった)として入部、呉羽の百塚に築城を計画した。
万治二年(1659)、利次は百塚への築城を財政難により断念、領地替えによって富山城を正式に居城とした。寛文元年(1661)、幕府より富山城修復が許可され、本格整備が実施された。天守、櫓は建てられずに櫓門一ヶ所にとどまったと言われている。神通川を搦手としたことは神保氏時代から変わりなく、二重の水堀と相まって水かさが増すと城が浮いたように見えたことから浮城とも呼ばれたらしい。
その後も火災による焼失が多く、延宝三年(1675)、正徳四年(1714)、天保二年(1831)、安政二年(1855)と続き、御殿などの建物の修復がその都度繰り返されている。
富山藩十万石は十三代続いて明治に至った。明治六年(1873)、廃城令により解体された。
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