仙台城は独眼竜で知られる伊達政宗の居城であり、その威容は江戸城に次ぐものであったと言われる。
政宗が仙台城の縄張を始めたのは関ヶ原合戦後の慶長五年(1600)十二月からである。それ以前、この青葉山に居城を持っていたのは国分氏であり、当時は千代と呼ばれていた。国分氏の居館には千体仏が祀られていたため、千体が千代になったという。
国分氏は鎌倉期に陸奥・国分荘を国分胤通が得たことに始まると言われているがその後の詳細は明確ではないようだ。国分氏が近隣諸豪を従えて国人として明らかになるのは戦国期に入ってからであろう。応仁・文明の頃(1467-1487)には国分盛行が伊達成宗と争った末に和睦している。その後は伊達氏に属することになり、天文五年(1536)には伊達輝宗の弟政重を後継者として迎えた。政重は国分盛重と名を改め、国分氏家臣団を率いて伊達氏の臣列に連なった。天正十九年(1591)には伊達氏を名乗り、慶長四年(1599)頃に突如として出奔、佐竹氏の臣となってしまったことにより、国分氏は滅亡となった。当然、千代城も廃城となった。
この廃城跡に目を付けたのが伊達政宗であったのだ。それまでは豊臣秀吉の奥州仕置後に米沢七十二万石から五十八万石に減封されて岩出山城(宮城県大崎市)を居城としていたのである。
関ヶ原合戦(慶長五年/1600)時、政宗は会津(若松城)の上杉景勝の動きを封ずる役目を徳川家康から求められ、東軍勝利の後には百万石に加増が約束されたのであるが、自ら軍勢を率いて力で切り取る行動に出たために加増は二万石に止められた。家康は気の許せぬ男と政宗のことを思ったに違いない。それでも、家康は政宗の千代築城は許した。
政宗は関ヶ原の年の十二月に縄張を開始、地名を仙台と改めた。完成は慶長七年(1602)五月と言われる。
東と南は断崖となって攻め手を寄せ付けず、西は数条の堀切を構え、眼下の広瀬川が堀の役目を果たしていた。まさに天険の山城、無類の要害、戦う城であったといえる。反面、幕府に対する恭順の姿勢を示すため、本丸御殿大広間には天皇・将軍の御座所用に上々段の間を設けて自らは一段低い上段の間を着座位置としたという。さらに天守台は築いたもののこれも幕府に遠慮したのであろう、ついに築かれることはなかった。
慶長二十年(1615)、政宗は大坂夏の陣で大坂方の後藤又兵衛基次隊を壊滅させて伊達軍団の健在ぶりを示したが寄る年波には逆らえず、寛永十三年(1636)五月、江戸屋敷にて没した。享年七十歳であった。
二代藩主となった忠宗は本丸の北麓に二の丸、三の丸を増築して居館と藩庁を山上から移し、平山城となって近世城郭の体を成すに至った。
仙台藩は十四代続いて明治維新を迎えることになるのであるが、四代藩主綱村の頃より他藩同様藩財政は逼迫した状態が続いた。
戊辰戦争で仙台藩は奥羽越列藩同盟の中心的存在となったが、結局は薩長主導の新政府軍に降伏して朝敵処分を受けることとなり、領地も二十八万石に減らされてしまった。このため家臣の多くは帰農、解雇、北海道開拓移住などを余儀なくされ、苦難の生活を強いられることとなった。
仙台城そのものは戊辰戦争の戦火を受けることはなく、政宗の築いた堅城はそのまま東北鎮台(明治四年/1871)の本営(本丸は兵舎建設のために壊された)として生き続けた。しかし、櫓や門などの建造物はその後の火災や第二次大戦の空襲、米軍の進駐などによってすべてが失われてしまった。
昭和四十二年(1967)、二の丸大手門の脇櫓が外観復元され、仙台城址唯一の建造物となって現在に至っている(東日本大震災/2011にて損傷)。
|