江戸城
(えどじょう)

国指定特別史跡、百名城

東京都千代田区

桜田櫓
▲ 桜田二重櫓。巽櫓ともいう。かつては二重、三重の櫓が二十基あったが現存するも
   のはこの桜田櫓と伏見櫓、富士見櫓の三基のみである。奥に見えるのは桔梗門である。

道灌が築き、家康が天下の府とした大城郭

 康正二年(1456)、扇谷上杉持朝の執事太田道灌はここ江戸に築城を開始し、翌長禄元年にはここを居城とするに至った。道灌がここに築城したのは、幕府に離反した古河公方足利成氏に対抗するための川越城とを結ぶ戦略拠点とするためであった。

 いち漁村にすぎぬこの寒村を居城地とした道灌は以後四年にわたり古河方の長尾景春との合戦に明け暮れ、これを破った。この三年間に三十回以上の戦いを繰り返したといわれている。ともあれ、道灌の活躍で扇谷上杉氏の勢威も高まった。自然、城下には商人が集まり、江戸の湊には商船も入るようになった。商業拠点としても芽生えてきたのである。

 とはいえ、遠い将来、この地が日本の首都となり、世界有数の大都市に変貌するとはいかに道灌といえども思い及ばなかったに違いない。

   わが庵は松原つづき海近く
   ふじの高嶺を軒端にぞ見る

 これは道灌が自らの居城を詠ったもので、現在の東京からは想像も出来ぬ情景である。

 その道灌の働きに恐れをなし、排斥の動きを見せたのは敵ならぬ味方の内にあった。

 上杉氏筆頭で関東管領である山内上杉顕定は扇谷上杉の力がこれ以上強大になることを恐れていた。このことから両上杉の衝突は必至であるとみた道灌は江戸城のさらなる増改築にとりかかったのである。

 そこで、管領上杉顕定は道灌謀殺の一計を講じた。
「道灌が城を増強しておるは主家を乗っ取るためのいくさ支度である」
 と扇谷上杉定正に吹聴したのである。

「まさか」
 と思いつつも定正は、城の普請を中止するように道灌に命じたのである。

 しかし、
「いまだ世情定まらず」
 と道灌は改築作業をやめようとしなかった。

 文明十八年(1486)七月二十六日、定正は相模糟屋館(伊勢原市/扇谷上杉氏の本拠地)に道灌を招き、湯浴みで丸腰になったところを襲って暗殺してしまったのである。
「当方滅亡っ」

 これは道灌最期の言葉として伝えられている。これで上杉家もおしまいだ、という意であろう。事実、両上杉はこの後、熾烈な争いを繰り返し、そして疲弊しきったところを新興の北条氏によって滅ぼされてしまうことになる。

 とまれ、江戸城は道灌亡き後、扇谷上杉の直接所有するところとなり、曾我祐重が城代となり、さらにその後上杉朝良が入城して扇谷上杉の本城となった。

 大永四年(1524)、関東制覇に燃える小田原城の北条氏綱の攻撃を受け、江戸城は落城した。城内にいた道灌の孫太田資高は北条方に内通して開門、北条勢を引き入れて上杉勢を追い出したのである。

 江戸城を接収した氏綱は遠山直景、富永政景、太田資高を城代として置き、武蔵進出の拠点とした。

 大永、享禄、天文、弘治、永禄、元亀、天正と世情は戦国の様相を色濃くして流れてゆく。北条氏が関東で上杉氏や古河公方家と争い続けている間に箱根より西では信長、秀吉、家康らによる天下統一の大きな流れがうねっていた。天正十八年(1590)四月、四国、九州の統一を果たした秀吉は二十一万余といわれる史上空前の大軍をもって関東へ押し寄せ、小田原城を攻めた。攻防三ヵ月、早雲以来百年五代にわたった北条氏もついに滅びてしまった。

 この小田原落城に先だつ四月二十二日、徳川勢は江戸城を攻略、接収していた。家康と江戸城の関わりのはじまりである。

 七月十三日、小田原城で論功行賞が行われた。家康に対しては、それまでの駿河、遠江、三河、甲斐、信濃の五ヶ国から関八州への国替えが命ぜられた。

 徳川家とその家臣ら全ての引越しが始まった。江戸入城は八月一日、家康以下随従の家臣は皆白帷子姿であったという。

 これを「江戸城御打ち入り」と呼ぶようになり、この日(八月一日・八朔)はその後、幕府の重要な祝日となったのである。毎年、八朔の儀には家康の江戸入城に倣い、大名、旗本は白帷子で登城したのである。

 さて、関八州の太守として江戸城に入った家康であったが、手狭であったにちがいない。道灌の築城から百三十年以上が経過しており、その間に修築改造が成されたとはいえ最早堅城といえるほどのものではなかった。それでも家康は黙って城下の整備を進めた。

 慶長八年(1603)、家康は征夷大将軍に任ぜられ、この日を待っていたかのように全国の諸大名に江戸城普請の大工事を命じた。

 翌慶長九年は石材や材木の運搬、集積がはじまった。また神田山を崩して湿地や海岸を埋立て、日比谷、銀座、日本橋などの市街が造成された。

 慶長十一年三月一日、江戸城大修築がはじまった。全国諸大名の殆んどが動員され、本丸、二の丸、三の丸、天守閣、その他の楼閣、内濠、外郭等の工事が一斉に進められた。同時に諸大名の屋敷も豪華絢爛を競って建ち並び、江戸城は日本の中心たるに相応しい城となりつつあった。

 寛永六年(1629)、三代将軍家光はさらなる大増築を諸大名に指示、同十三年に完成している。家康の打入りから約半世紀にわたる大工事もここに完了した。

 城門の数は内郭、外郭、城内を合わせると百十一、二重、三重の城櫓は二十、多門二十六という大城郭である。

 その後、慶応四年(1868)の無血開城に至るまで、江戸城は約二世紀半にわたり日本の府城として機能し続けた。

 その間、十数回の火災に見舞われ、明暦三年(1657)の火災では天守閣、本丸、二の丸が焼失している。日本最大を誇った五層の大天守は以後再建されることはなかった。 城門の数は内郭、外郭、城内を合わせると百十一、二重、三重の城櫓は二十、多門二十六という大城郭である。

 その後、慶応四年(1868)の無血開城に至るまで、江戸城は約二世紀半にわたり日本の府城として機能し続けた。

 その間、十数回の火災に見舞われ、明暦三年(1657)の火災では天守閣、本丸、二の丸が焼失している。日本最大を誇った五層の大天守は以後再建されることはなかった。

 勝海舟と西郷隆盛の談判により江戸城及び江戸の街が戦場とならずに平和裏に朝廷側に引き渡されたことは周知のことである。

 明治元年(1868)十月十三日、徳川家が去り、官軍によって接収された江戸城に明治天皇が入った。この時、江戸城は「東京城」と改称された。

 翌二年、明治天皇の宮殿となっことから「皇城」と称されるようになった。

 明治二十一年十月、去る六年五月の火災で焼失した西の丸御殿跡に明治宮殿が完成して「宮城」と呼ばれるようになった。

 さらに昭和二十三年(1948)以降は「皇居」と称されて現在に至っている。

 旧二の丸、旧本丸のある東御苑は史跡公園となり、旧北の丸には武道館が建ち若者の集う場となっている。

 道灌の築城以来、城としての意味合いは変りはしたものの、実に五百五十年の長きにわたり、江戸城は現在も生き続けているのである。


高層ビル群を背景にその美しさを際立たせている桜田門

▲旧本丸天守閣跡。日本最大の天守がそびえていたが明暦の大火以降は再建されることはなかった。石垣の石材で白いものは小豆島、黒いものは伊豆のものと云われている。

まずは北の丸から散策開始。近衛歩兵第二連隊記念碑

北の丸、近衛歩兵第一連隊記念碑

▲田安門から一旦出る。

▲陸軍大将大山巌公像。

▲吹上郭東の半蔵濠。

▲半蔵門。

▲半蔵門から南は桜田濠と呼ばれる。

▲江戸城でも最も幅広の桜田濠。

▲桜田門から再び入る。

桜田門の第二の門である渡櫓門

▲的場曲輪の石垣と濠。

皇居正門と正面石橋。宮殿に行くにはさらに折り返して正面鉄橋を渡らなければならない。二重橋と呼ばれる所以である。

▲二重橋の向こうに見える伏見櫓。

皇居外苑。かつては大名屋敷が並んでいた場所である。昭和20年、焼け野が原と化した帝都を背景に、ここでおおくの市民が慙愧の涙を流した。以後、幾星霜、背景に林立する高層ビル群は復興と平和の道を歩み続けてきた日本の象徴といえるであろう。

▲坂下門。

▲桔梗門。

▲桜田隅櫓。

大手門。現在では城内散策の入口となっている。

大手門は戦災で焼失していたが昭和四十二年三月に復元された。

▲大手門渡櫓。

▲大手門を入るとこの石垣。

▲百人番所。

本丸入口。かつては江戸城最大の門、書院門があった。

▲本丸。

忠臣蔵でおなじみの松之廊下の碑。

見事な石組みは古代文明の遺跡を連想させる。

天守台を間じかに見上げると、その壮大さに圧倒される。

▲平川門。

太田道灌公追慕之碑。地下鉄虎ノ門
 駅工事の際に出土した石材である。

▲平川門を出て左すぐにある。
     

----備考----
訪問年月日 2005年9月3日
主要参考資料 「関東の名城を歩く・南関東編」
「日本城郭総覧」他

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