本格的な石垣造りの城となったのは安土城であり、それを築いたのは織田信長であった。しかし、それ以前に石垣を多く用いた山城があった。それはこの観音寺城である。安土城の南東わずか2kmに位置しており、当然ながら信長もこの観音寺城の石垣を目にしていたはずである。つまり観音寺城は石垣造りの城郭の先駆を成すものであったといえる。
その観音寺城、六角氏累代の居城であったことは周知のことであるが、その創築となると定かではない。南北朝争乱の頃、佐々木(六角)大夫判官氏頼がここに籠ったと言われ、この頃には城砦化されつつあったものと一般的には見られている。
その後、観音寺城が戦乱の舞台となって登場するのが応仁の乱に伴うものであった。この頃には六角氏の居城として整備されていたようで、応仁二年(1468)四月には敵方東軍の京極勝秀の軍勢に攻められている。時の当主六角高頼は西軍勢として京都に陣しており、家老伊庭行隆が城を守っていた。この戦いで守将の伊庭氏は城を明け渡して退去している。
同年十一月、六角高頼の重臣で陣代を務める山内政綱が帰国して観音寺城の防備を固めた。この時の戦いは京極持清と守護を取り上げられた六角政堯が組んでの来攻であった。しかし、この戦いでも山内政綱は防戦つたなく火を放って敗走したという。どうも、この城は守りが難しいようである。
八代将軍義政を擁した東軍方は翌年の文明元年(1469)、六角高頼から守護職を取り上げ、京極持清を近江守護とした。憤懣やるかたない高頼は焼けた観音寺城を修復、自ら籠城して京極勢の来攻に備えた。攻め寄せてきたのは京極一族で重臣の多賀高忠の率いる軍勢と前年同様に六角政堯の軍勢であった。激しい攻防戦であったようだが、観音寺城は持ちこたえて京極方を撃退した。
その後も六角対京極の抗争は続いたが文明十年(1478)に至り、優位に立った六角高頼は守護の座に返り咲いた。しかし、高頼の押領行為などで将軍の親征を受けるなどして守護の座も落ち着かず、それが確立するのは次の定頼の時代になってからとなる。
永正十五年(1518)、家督相続した定頼は将軍足利義晴の擁立に功績があり、その後ろ盾として幕府政治に重きをなす一方、北近江の浅井氏(小谷城)を攻めて従属させるなどして六角氏の全盛を築いた。
この定頼の時代に観音寺城は大きく変貌することになる。定頼は織豊期には当たり前となる家臣団の城内・城下への集住を時代に先駆けて実行したのである。それが山城全体に100を超える曲輪を出現させ、また街道を行き来する人々には六角氏の権威を見せつけるということにもなった。そして城下には初めて楽市を設け、商業経済振興の先駆けとなったことでも知られている。石垣が多用されたのも定頼の代のことと思われ、これは鉄砲に対するためのものであったようだ。
天文二十一年(1552)、定頼の死によって嫡男義賢(承禎)が継いだ。永禄三年(1560)、浅井長政との戦いで敗れたのを境に六角氏の勢威は陰りを見せ始める。永禄六年(1563)には家臣団の不満を買って観音寺城を追われる事態も起きている。その後、城に復帰はできたがもはや大名としての統率力はなく、浅井氏との抗争も防戦一方であったようだ。
永禄十一年(1568)九月、足利義昭を奉じる織田信長の上洛軍が観音寺城に迫った。義賢、義治父子は長期戦を想定して各支城の守りを固めていたが、箕作城と和田山城がわずか一日で落ちてしまうと城を捨てて甲賀の石部城へ逃走してしまった。その後、六角氏は石部城を拠点にして信長への抵抗を続けるが、やがて歴史の表舞台には登場しなくなる。
そして主人の去った観音寺城も城としての幕を閉じたようだ。
ただ、信長が築いた安土城にはこの観音寺城の遺伝子が少なからず引き継がれているものと思われ、今後の研究によってそれが明らかになると思われる。
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