高須に城館が築かれたのは、延元三年(1338)の越前灯明寺畷の戦いで新田義貞の首級を上げた戦功により足利尊氏から美濃国石津郡内の地頭職を与えられた氏家重国によると言われる。
氏家氏はその後大垣方面に移ったようで、戦国期には津島周辺に勢力を張った四家七苗と呼ばれる土豪衆の一家大橋氏が当地に拠点を置いた。大永二年(1522)、大橋源左衛門重一が築城したと伝えられている。次代の重長は尾張の織田信秀と争った後に属するようになった。天文三年(1534)から弘治二年(1556)までは高津直幸が城主となりそれ以降も四家七苗関係の土豪六氏(平野長治、恒川信景、鷲巣光康、秋山信純、林長正、林正三、稲葉正成)が城主を務めた。天正十二年(1584)からは日根野弥十郎信勝、加藤伝左衛門重次が城主となり、文禄元年(1592)からは高木十郎左衛門盛兼が一万石で入城した。
慶長五年(1600)関ヶ原合戦時、高木盛兼は豊臣家臣として当然のように西軍に加担したが、本戦に至る前の八月十九日、東軍先鋒としていち早く居城に戻っていた徳永寿昌(松ノ木城)、市橋長勝(今尾城)の攻撃を受けて落城してしまった。この戦いに際し、高来盛兼は不戦開城では面目が立たず、空砲を撃つなどして空戦を演じた後に降伏したいと申し出たが、徳永らの東軍勢はこれを無視して攻め立てたと言われている。戦後、盛兼は出雲国松江藩堀尾氏に寄食して同地にて没した。
慶長六年(1601)、徳永寿昌が関ヶ原合戦の戦功により二万石を加増され五万石の大名として高須城に入り、高須藩を立藩した。寿昌は入城後三年をかけて城を修築、城下町も整備した。慶長十七年(1612)没。子の昌重が継いだ。
徳永昌重は大坂の陣で戦功があり、加増されて五万三千石となった。寛永五年(1628)、大坂城二の丸の石垣普請を命じられていたが、酒食に耽って工事が遅滞したために所領没収、廃藩となってしまった。昌重は出羽庄内に流され、寛永十九年に没した。
寛永十七年(1640)、徳永氏の後、天領となっていた高須に小笠原貞信が下総関宿から二万二千石で入封した。貞信は関ヶ原合戦時の城主高木氏の一族高木貞勝の子で母方の関宿藩主小笠原氏を十歳の時に継いでいた。しかし幼少のために高木氏所縁の高須に移封となったとされる。貞信は元禄四年(1691)に転封となるまで五十一年間の長きにわたり藩の経営に力を注いだ。「繁昌の城と相成り、郷中堤樋共丈夫に相成り、万民安堵」と記されるまでになった。しかし水害の多さに藩財政は窮迫、ついに転封を願い出たと言われている。転封先は越前大野勝山城二万三千石であった。
小笠原氏の去った後再び天領となっていたが元禄十三年(1700)に信濃高井藩三万石松平義行が所領の半分を返上して新たに高須一万五千石を与えられて封ぜられ、高須を居城とした。義行は尾張二代藩主徳川光友の次男であり、尾張四代藩主を補佐した。
高須藩松平家は尾張徳川家御連枝ということで宗家に嗣子無き場合はこれを相続する役目を担っていた。初代義行の後、十三代続いて明治に至った。この間に四人が宗家に入り、三人が尾張藩主となっている。また、十代藩主義建(よしたつ)には男子が多く、次男義怒は尾張徳川家、三男武成は石見浜田藩主、七男容保は会津藩主(若松城)、八男定敬は桑名藩主となった。
現在、城跡は宅地、学校などになり遺構はわずかに堀跡の水路が残るのみとなっている。
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