江川邸
(えがわてい)

国指定史跡

静岡県伊豆の国市韮山金谷


▲ 江川邸は平安末期から幕末に至るまで七百年以上に及ぶ
歴史を持つ江川氏の居館である。現在の主屋の原型となる建物
は関ヶ原合戦(1600)前後に建てられたと推定されている。

一所に生きる

 韮山の観光名所のひとつで国の重要文化財にも指定されているのが江川邸である。その江川邸の歴史は古い。見学コースに従って江川邸の主屋に入ると50坪はあるという土間が広がっている。入って左手に「生き柱」と呼ぶ柱がある。江川氏がここを居住地と定めた時に生えていたけやきの木をそのまま柱にしたと伝えられているものである。

 時代は平安末期、保元の乱(1156)の頃にまで遡る。江川という姓は室町中頃に改めたということであるからこの韮山移住当時は宇野という姓であったという。清和源氏源満仲の次男宇野頼親を始祖とし、六代親治の時に保元の乱に敗れ、その孫親信が従者十三人と共にこの地に逃れてきたことから後の江川氏の歴史がこの屋敷とともに始まった。親信の子治信は源頼朝の挙兵(1180)に応じて戦いに臨んだとされる。

 鎌倉時代の弘長元年(1261)、十六代英親は伊東に流罪中の日蓮聖人を数日間この屋敷に迎え、日蓮自筆の曼荼羅を棟札として頂いたと言われる。

 室町期に入り、やがて戦国争乱の時代となる。江川氏もまた否応なしにその時代を生きて行くことになる。明応二年(1493)、興国寺城主伊勢盛時こと早雲庵宗瑞(北条早雲)が堀越御所を攻め滅ぼして伊豆の支配者となった。そして韮山城を築いて生涯の居城としたことは周知のことである。これは江川氏二十三代英住の時のことである。早雲の韮山築城に際し、英住がその土地を提供したと伝えられている。以後、江川氏は後北条氏に仕え、天文七年(1538)の国府台合戦などにその名を残しているという。

 天正十年(1582)、二十八代英長は北条と徳川和睦の際に北条氏規に同行して甲州の家康の陣に出向いた。家康と江川氏の関係はこの頃から始まった。

 天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐時には、英長は家康の旗本となっていたようだ。父英吉は北条氏規とともに韮山城の籠城戦に加わったが、韮山開城のために父子で働いたという。家康も秀吉に対して江川氏には手を入れないことを認めさせている。

 徳川幕府の世になり、伊豆が天領となると江川氏は代官としてこの地に在り続けた。その支配域は伊豆一国にとどまらず武蔵、甲斐、相模、駿河、伊豆諸島に及び、石高は五〜十万石であったという。

 江川氏歴代のなかで幕末に活躍した三十六代太郎左衛門英龍(坦庵)は著名で、西洋砲術、台場築造、大砲鋳造、農兵訓練などに大きな業績を残したことは周知のことである。


主屋の玄関から表門を見る。平成20年(2008)の大河ドラマ「篤姫」では島津屋敷のロケ地になっていた

▲韮山反射炉。安政四年(1857)、江川英龍の建言によって大砲鋳造のために造られた。
 ▲ 江川邸表門。元禄九年(1696)建築。文政六年(1823)と平成十二年(2000)に補修されている。
▲ 江川邸主屋裏に並ぶ米蔵。

▲邸内に展示されていた小型砲の砲車。安政元年(1854)にペリーから幕府に贈られたものと推定されている。

----備考----
訪問年月日 2012年1月3日
主要参考資料 現地案内パンフ、他

 トップページへ全国編史跡一覧へ