(にほんまつじょう)
国指定史跡・百名城
福島県二本松市郭内
▲ 二本松城は伊達政宗によって畠山氏が追われた後は会津若松城の支城とし
て扱われ続けたが、寛永四年(1627)になって立藩、十万石の府城として明治に
至った。戊辰戦争では降伏することなく激闘の末に落城した城として知られている。
(写真・再建された二本松城箕輪門二階櫓)
城を枕に討死の戊辰戦争
二本松城は江戸期に白旗ヶ峰の山麓に城館を構築して近代城郭の体裁を整えたが、それまでは白旗ヶ峰山上に築かれた山城であった。 |
▲二本松城本丸。石垣造りに改修されたのは蒲生氏、加藤氏時代であった。平成5年(1993)から2年をかけて全面修復復元工事が施された。 |
▲昭和57年(1982)に復興された箕輪門と二階の附櫓。 |
▲二本松城を訪れると真っ先にこの「二本松少年隊」の群像が目に入る。怒涛の薩長軍に対して寡兵を補うべく出陣を許された少年達は落城の瞬間まで懸命に戦い、そして散った。 |
▲二本松少年隊の説明板。 |
▲箕輪門前の登城道。 |
▲「大城代内藤四郎兵衛戦死之地」の碑。箕輪門前に建っている。戊辰戦争時、内藤四郎兵衛正直は二本松城落城に際し、城内で自刃することを潔しとせず、箕輪門を開いて薩長軍の中に突入して斬死したと伝えられている。 |
▲箕輪門前の石垣。 |
▲復興された箕輪門。 |
▲三の丸への虎口。 |
▲三の丸跡。 |
▲二本松城は別に霞ヶ城とも呼ばれる。 |
▲本丸石垣。東日本大震災で損傷箇所があり、立入禁止となっていたためこれより先へは行けなかった。2013年、災害復旧工事が完了した。 |
▲本丸下南面の大石垣。 |
▲箕輪門前に立つ案内図。山頂本丸近くまで車で行ける(東日本大震災以後、一時的に立ち入り禁止となっていた)。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2012年5月4日 |
主要参考資料 | 「日本城郭総覧」 |
↑ | 「武士道・二本松少年隊の記録」他 |