岩略寺城
(がんりゃくじじょう)

市指定史跡

豊川市長沢町御城山


▲ 岩略寺城は築城者・築城時期ともに不詳とされる山城であるが、戦国期の
今川氏、徳川氏によって普請・強化された可能性が高いと思われる。また、
近世の改修を受けていないため、中世山城の遺構を良好に残しているとされる。
(写真・本曲輪北側法面下に設けられた三日月堀。)

東三河の前衛

 岩略寺城と長沢城(長沢古城)は至近の位置にあり諸記録にいう長沢城とはこのどちらを指しているのか明らかにはなっていない。岩略寺城は長沢山城とも呼ばれるように戦時の長沢城と捉えることもでき、古城の方を平時の長沢城と見ることが出来るかも知れない。

 しかし、築城者、築城の時期ともに明確でなく、そのまま長沢城を居城として代を重ねた長沢松平氏のものと単純に断ずることもできないようだ。岡崎城を拠点とする松平宗家と三河に勢力を伸張あるいは維持しようとする今川氏にとって長沢は互いに重要な地であり、とくに今川氏はこの地に麾下の武将を配して兵の駐留や城の普請などを命じていることが伝えられているのである。

 今川氏が松平清康の死後に内紛によって弱体化した松平氏の庇護者となって三河の支配を推し進めていた天文十五年(1546)、今川義元の軍師太原崇孚雪斎は田原城攻撃までに牛久保に百人、長沢に五十人四番交代で六百人の兵を配地するように命じたと言われている。すでにこの頃には長沢の地が今川氏の重要拠点のひとつとなっていたことが分かる。

 翌天文十六年(1547)にも今川氏に属する牧野氏(牛久保城)が長沢への兵の配置を命じられたとする史料もあるようだ。

 天文二十年(1551)には今川方の先手として勇名をとどろかせる遠州匂坂城主匂坂長能が長沢に在城して普請を命じられている。おそらくはこの匂坂氏による普請というのが岩略寺城の整備強化を意味するものではなかったかと思われるが、残念ながらそれを証明するものはない。

 永禄三年(1560)の桶狭間合戦で今川義元が敗死すると三河における今川氏の支配は急速に衰え、替わって岡崎城に自立した松平元康(徳川家康)の台頭をみることになる。

 翌永禄四年(1561)、西三河を追われた今川勢は東三河の関門にあたる長沢の地を固守するために糟谷善兵衛、小原藤十郎らを城代として配置していたが、松平勢によって攻略されてしまう。攻略の際、山路が狭く険しいために軍勢を二手に分けて攻め落としたと伝えられている。

 その後は松平氏改め徳川氏の持城として存続したものと思われるが、天正十八年(1590)の家康の関東移封によって利用されることもなく、手付かずの状態で現在に至った。

 そのおかげで、岩略寺城跡は愛知県最大の中世山城の遺構を残すものとして喧伝されている。


▲ 本曲輪北西隅の虎口。
 ▲ 城山林道の途中にある看板。中世山城の本県最大の遺構とある。
▲ 林道の終点。ここは本曲輪のすぐ近くで、駐車空間も確保されている。登山の苦手な人でも楽に見学できる。

▲ 案内標識も各所に立てられている。

▲ 本曲輪北西虎口には井戸跡が残る。

▲ 岩略寺城は井戸の多い山城としても知られる。確認される井戸は5か所に及ぶ。

▲ 本曲輪跡。土塁で囲まれた方形の曲輪である。

▲ 本曲輪の土塁。

▲ 本曲輪北側法面下には珍しい三日月形をした堀がある。法面下を掘ることで法面自体の高さを増幅させることが目的であったと見られれている。

▲ 駐車空間に立てられている縄張図。

----備考----
訪問年月日 2012年10月20日
主要参考資料 「史跡 岩略寺城」
「戦国の城」他

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