天文二十二年(1553)六月、今川家臣石川新左衛門康盛が岡崎衆二百余を率いて知多湾を渡海、知多半島東岸に突き出た村木の浜に上陸した。石川勢の目的はこの村木の浜に砦を築くことであった。
この築砦に備えて今川方は重原城(知立市)を攻め落として資材・物資の兵站拠点とし、さらに知多半島西岸の花井氏(寺本城)を味方に引き入れていた。一般的には緒川城を居城とする織田方水野氏攻略のための築砦と見られている。緒川城の北2kmの所であるから水野勢の襲撃に警戒しながらの突貫工事であったが、石川新左衛門らの築砦は順調に進んだ。水野氏が不覚を悟った頃には深い堀によって守られた難攻丈夫な砦が完成した。守りに就いたのは青野(東条)松平甚太郎忠茂(現地説明板では義春)を守将とする三河衆であったようだ。
一方の水野信元であるが、この当時は刈谷城を居城としており、今川方の村木の築砦を阻めなかったということは傍観していたものと思われる。とにかく今川の力は強大であり、場合によっては今川方へ転ぶことも考えていたのかも知れない。
こうした信元の傍観的態度に業を煮やし、織田信長に出陣を要請したのは緒川城(金吾構え/後の高藪城)を警備していた布土城主水野金吾(藤次郎)忠分(ただちか)であった。忠分は信長に直接仕える士であり、信長(二十一歳)から金吾の名乗りを許された若武者(十八歳)であった。
年明けの天文二十三年(1554)正月、織田信長は居城那古野城を出陣した。この時、信長は舅である斎藤道三に出陣後の那古野城守備を要請しており、道三家臣の安藤伊賀守守就以下千人の軍勢が留守の守りについた。この当時信長の尾張平定は完成しておらず、清州城の守護代家による襲撃を警戒しなければならなかったからである。
二十一日、那古野城を出陣した信長とその軍勢は熱田に宿陣、翌二十二日に大風の中を強行渡海して知多半島西岸加家の浜に上陸した。ここで荒尾善次の木田城に入城して野陣、翌二十三日には緒川城へ入り、水野金吾らと合流、砦攻めの手筈を整えた。この日、信元も刈谷から緒川に来て信長に会ったようだが、砦攻めからは外されたようだ。
砦攻撃は二十四日払暁とともに始まった。信長は本隊八百人を直卒して砦の南側からの攻撃を受け持った。大堀が設けられた最も攻めにくいところである。砦西側の搦手口には信長の叔父織田信光(守山城主)二百人が殺到し、東側大手口は水野金吾勢二百人が攻めかかった。砦の守兵は二百人ほどであった。
戦いは激しく、信長勢の若武者たちが先を競って堀をよじ登り砦内に突入しようとするが敵の反撃で次々と堀底に転がり落ちた。信長自らも堀端に立ち、鉄砲を取り換えながら撃ち続けて攻め手を援護した。「手負死人其の数を知らず」といった激戦であった。各攻め口でも激しい攻防が続き、次第に砦方にも手負い死人が増えて薄暮には戦える者が居なくなり降参、信長方の勝利で戦いは終わった。
砦の処置を水野金吾に任せ、本陣に戻った信長は戦死・負傷者の多く出た戦いを振り返り、感涙を流したという。
翌日、信長勢は引き上げの途中に寺本城下を焼き払い、那古野城へ凱旋した。
那古野城の留守を守っていた安藤伊賀守は美濃帰国後、道三に信長の戦いぶりなどを報告したが、これを聞いた道三は「すさまじき男」と信長を評したという。
戦後、村木の村の代官となった水野家臣清水八右衛門家重と同権之助政晴が元亀二年(1571)、砦跡に戦死者の鎮魂のために八剱神社を創建し、現在に至っている。
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