足山田城
(あしやまだじょう)

豊川市足山田町西城下


▲ 足山田城は武田方が街道を監視するために築いた
小規模な山城であるが、その詳細な歴史は不明である。
(写真・ゴルフ場の柵越しに見た城山。)

鉄の心と宝川合戦

 足山田城は宝飯郡誌には城主の名をもとに秋山新九郎城と記されている。しかしながら築城の時期やその歴史については不明な点が多い。城跡の800mほど東の六郎辻と呼ばれるところに「烈士秋山六郎之碑」が建てられており、そこに豊川市教委による足山田城に関連する説明板が立てられている。内容は複数の口碑伝承をまとめて一つにしたようなものとなっているが、案外つじつまが合っているのでそれに倣ってまとめてみようと思う。

 元亀四年(1573) 三月、武田信玄率いる大軍の前に野田城が開城して落ちた。野田城落城後、武田勢は信州へ軍を返したがその途次に信玄は没してしまう。

 この引上げの際に武田方は監視用の山城を設けていた。それが足山田城であるとされる。確かに三河と信州を結ぶ街道(現国道151)を俯瞰するには最適の位置にある。東海古城研究会刊「城第108号」には「眼下には、国府・八幡方面から野田城、新城方面へ通じる街道もあり軍事上からみると大変要衝の地であると云える」とある。

 街道監視の任務を帯びて足山田城に残置されたのは武田家臣秋山新九郎とわずかな兵であったと思われる。秋山新九郎らは現在は城山(キャッスルヒルCC内)と呼ばれる標高108mの山頂に数段のわずかな削平地と土塁を築き、監視の任にあたった。一部には石塁も見られるが、概ね小規模なものであり、一時的な拠点であったと見られている。

 先の説明板には「信玄没後、徳川家康に攻められ落城した」とある。年月は記されていないが、信玄が没して五ヶ月後の天正元年(1573)九月に家康は長篠城を攻め取っている。足山田城の落城はこの長篠城攻めに伴ったものであったものと思われる。

 秋山新九郎らと徳川勢との戦いを伝えるものとして「宝飯郡誌」に若干の記載がある。「往昔落城ノ際、敵将今川氏黒谷川ヲ遮断ス。為メニ飲用水二窮シ、終ニ西滝山ノ滝ヨリ飲用水ヲ取リタリト云フ」とある。敵将今川氏は徳川氏の誤りであろう。黒谷川は城山の東麓に沿って南流する細流(CC内)である。西滝山の滝はよく分らない。いずれにしても、水の手を断たれた秋山新九郎以下城兵は城を打って出て壮絶な討死を遂げたものと思われる。

 ところが、この戦いで生き延びた男がいた。秋山新九郎の家臣秋山六郎である。秋山新九郎の一門であろう。戦いの後、秋山六郎は長山村に隠れ住んだ。その場所が石碑の建つ六郎辻であったとされる。秋山六郎は土地の人々とも打ち解けて平安な日々を送っていたらしい。

 天正三年(1575)五月二十一日、武田勝頼率いる一万五千と織田・徳川連合の三万五千の大軍が長篠(設楽原古戦場)に激突した。いわゆる長篠の戦いである。戦いは鉄砲を大量使用した織田・徳川勢の完勝に終わり、武田勝頼は多くの重臣を失って甲州へ落ちて行った。

 この戦いに先立つ十九日、秋山六郎は足山田城落城の際のわずかな残党を集めて長篠へ向かう織田・徳川の軍勢に向かって戦いを挑み、全員壮烈な討死を遂げた。宝川合戦と言い伝えられるものである。「死に遅れた者が死に花を咲かせる絶好の日である」と、六郎は勇み立ったに違いない。

 後に、六郎の死に同情を寄せた村人たちによって彼の住んでいた辺りに菩提供養の墓が建てられた。正徳三年(1713)のことであった。さらに後になって「一屋銕心」の戒名が追贈された。銕心とは鉄のように堅固な精神を意味する。秋山六郎の生き様は後の人々の心に大きな何かを残したといえよう。


▲ 六郎辻に建つ「烈士秋山六郎之碑」と菩提供養の墓。
 ▲ 城山を南側の県道21から見る。
▲ 六郎辻の石碑と供養の墓。

▲ 現在の宝川(六郎辻付近)。

----備考----
訪問年月日 2012年12月16日
主要参考資料 「城 第108号」
「一宮町誌」他

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