設楽原古戦場
(したらがはらこせんじょう)

市指定史跡

新城市竹広・八束穂・牛倉


▲ 設楽原古戦場における合戦は一般的には長篠の戦いと呼ばれており、織田・徳川の
連合軍と武田軍が激突した戦場跡である。古戦場には連合軍が構築した馬防柵が再現
されて当時の雰囲気を今に伝えている。古戦場の北端近くでは高速道路の建設が進め
られており、近い将来にはこののどかな山里の風景も変わったものになるだろう。

照日の輝き、
         朝露を消すが如し

 天正三年(1575)五月二十一日、長篠の戦いとして知られる織田・徳川連合軍と武田軍の合戦がここ設楽原で日の出とともに繰り広げられた。

 この戦いは、武田軍の騎馬による突撃戦を織田・徳川連合軍が馬防柵の構築と大量の鉄砲使用によって粉砕したことで知られ、それまでの合戦の様相を一変するものとなった。そして、無敵を誇る武田軍が一敗地にまみれ、一方の勝者となった織田信長はこれを期に天下人としての地位を確固たるものとしてゆくのである。この織田・徳川連合軍のあざやかな勝利は「信長公記」に曰く、「照日の輝き、朝露を消すが如し」と。

 織田信長が再三にわたる徳川家康の出陣要請に応えて尾張熱田を出陣したのが五月十四日であった。この日、岡崎にて徳川勢と合流、十六日牛久保、十七日野田に着陣した。そして十八日には設楽原におよそ三万五千(織田、徳川、武田それぞれの兵力には諸説あるがここでは一般的に言われている数字とする)の軍勢を展開して信長は極楽寺山に、家康は高松山に布陣した。設楽原に展開した将士は連吾川西側一帯(南北約2km)に馬防柵の構築を開始した。

 一方の武田軍は五月上旬以来、徳川方の長篠城を一万五千の軍勢で攻囲し続けていた。十九日、武田勝頼が本陣とする長篠城北方の医王寺山砦では武田軍の宿将らが一堂に会し、設楽原に展開した織田・徳川連合軍に対する軍議が開かれた。長坂長閑をはじめとする勝頼側近連が設楽原出撃の強行策を主張、馬場信房ら信玄以来の重臣たちは彼我の兵力差から劣勢であるとして甲州への撤収を主張して対立した。しかし勝頼の強い意志で設楽原への出撃が決せられたのである。

 馬場、内藤、山県、土屋といった重臣らは大通寺砦に集り、最期の水杯を交わしたと伝えられている。

 二十日、武田軍は長篠城の押さえに約二千、さらに長篠城を見下ろす東側山間部の鳶ヶ巣山砦などの諸砦に約千の兵を置き、主力一万二千の軍勢が設楽原へ向かった。この日、武田軍は連吾川東側の現在は信玄台地と呼ばれる南北に隆起した丘を中心に布陣を完了した。

 この夜、徳川陣から三千余の軍勢が秘かに出陣した。酒井忠次率いる鳶ヶ巣山奇襲隊である。夜中、しかも雨中の山間行軍には難渋したと伝えられているが、夜明けとともに奇襲に成功、鳶ヶ巣山とその周辺の諸砦を攻め落して武田勢を壊走させた。

 同時に設楽原においても戦いが始まり、両軍の喚声と鉄砲の射撃音が天空を圧した。

 戦いは武田軍左翼に布陣した山県昌景隊千五百による突撃によって始まったと伝えられている。山県隊正面の敵は徳川勢六千であった。山県隊は徳川陣の南端を衝いて背後に迂回しようとしたが徳川方の大久保忠世、忠佐兄弟の隊に阻まれて乱戦となり、やがて昌景も鉄砲に撃たれて斃れた。

 山県隊に続いて徳川陣に押し寄せた小山田信茂、小幡信貞の隊も馬防柵と鉄砲の前に崩れ、柵から突出した徳川勢によって壊滅してしまった。

 武田軍右翼では馬場信房隊七百が鬼神の如く突撃、織田方の佐久間信盛が陣する丸山に襲いかかった。

 佐久間隊に丸山を死守する気はなく、馬防柵内に撤退して迎撃の態勢をとった。

 この時、丸山を奪取した馬場信房は初戦に勝利したとして勝頼に退却を勧めたと言われている。無論、この時点で勝頼に退却の意思などあろうはずがなかった。

 馬場信房は攻撃を続行、続いて真田信綱、昌輝兄弟、土屋昌次、穴山信君、一条信龍の各隊が馬防柵目がけて攻めかかった。しかしながら馬防柵から大量に撃ち放たれる鉄砲によってこの方面の武田軍の攻撃も頓挫、真田兄弟、土屋昌次をはじめとする多くの将士が戦場に斃れた。

 戦線の中央部でも内藤昌豊、原昌胤らによる武田勢の突撃が敢行された。正面の織田勢は滝川一益隊三千である。武田勢は一ノ柵、二ノ柵を破り三ノ柵まで達したというが、やはり大量の鉄砲射撃によってこの方面の武田勢も壊滅、原昌胤ら多くが戦場に斃れた。

 戦線全体にわたる武田軍の攻撃は織田・徳川連合軍の構築した馬防柵と大量の鉄砲戦術によって頓挫、名のある武将が次々に戦場に斃れた。才ノ神高地に本陣を進めていた勝頼のもとに穴山信君がやってきて退却を進言したという。戦場では織田、徳川の兵が柵から出て攻勢に転じつつあった。

 未の刻(14:00頃)、勝頼は敗戦を認めて退却を決した。この退却戦で内藤昌豊、馬場信房らが勝頼を逃すために追撃の織田軍の前に立ちはだかり討死した。

 敗走する勝頼は僅かな馬廻りと道案内の田峯城主菅沼定忠らとともに武節城に達し、さらに奥三河の山塊を越えて信州へと落ち延びて行った。

 一方の大勝利をおさめた信長と家康は深追いをせず、長篠城外の有海原に野陣して諸将の奮戦をねぎらった。

 この合戦を境に信長は天下人としての地位を固め、勝頼は衰亡の一途をたどることになる。

「竹広激戦地」の石標。古戦場南部の激戦地となったところで、ここでは山県昌景隊と徳川勢が激闘を交えた。

▲再現された馬防柵。
 ▲ 新城市設楽原歴史資料館。長篠合戦に関連した史料や鉄砲などが展示されている。古戦場を一巡する際には是非とも訪れておきたい。
▲ 信玄台地に築かれた信玄塚(大塚)。歴史資料館のすぐそばにある。合戦後、戦死者を葬ったところで、大塚と小塚と二つある。毎年八月十五日には火のついた大松明を振り回して乱舞する「火踊り」が行われ、戦死者の霊を慰めている。

▲ 信玄塚から古戦場方向に向かうとまず目に入るのが「原隼人佐昌胤之碑」である。原隊は戦線の中央部で攻撃に参加したが馬防柵を突破できず、内藤昌豊らとともに昌胤も戦場に斃れた。

▲ 信玄台地南部、山県昌景が布陣したと伝えられる付近に昌景や山県甚太郎昌次、従士名取又左衛門、高坂又八郎らの墓碑がひっそりと建っている。山県隊は開戦一番に突撃を開始、正面の徳川勢と激しく戦った。

▲ 「長篠役設楽原決戦場」の碑。竹広激戦地から西側に東郷中学校があり、その正門前の丘に建てられている。この丘からは徳川勢が布陣して戦った戦場一帯が見渡せる。

▲ 徳川家康は現在の東郷中学校の北側にあたる高松山に陣取った。中学校西側の道の正面(北)に八剱神社がある。この境内地に「徳川家康本陣地」の石標が建っている。

▲ 「柳田前激戦地」の石標。戦場のほぼ中央部に位置するこの方面では武田軍の内藤昌豊、原昌胤らの各隊が織田軍の滝川一益隊に襲いかかり、死闘が繰り広げられた。

▲ 古戦場跡の中央を流れる連吾川。織田・徳川連合軍はこの細流を外堀として馬防柵を三重、四重に構築して武田軍の突撃に備えた。

▲ 復元(再現)された馬防柵の一画に建つ「土屋右衛門尉昌次戦死之地」碑。傍らに立つ「いろはかるた」の文句が合戦のすさまじさを呼び起こしてくれる。

▲ 古戦場北端に位置する「丸山」。武田軍の右翼をになった馬場信房勢は丸山に陣取る織田軍佐久間信盛勢を蹴散らしてこの丘を占拠した。ここで信房は勝頼に退却を進言したが容れられず、絶望的な突撃戦を続けるほかなかった。

▲ 「織田信長戦地本陣跡」。連吾川の流れる戦場から西約1kmの茶臼山にある。もともと山城があった場所と言われ、本陣跡には稲荷社が祀られている。決戦前夜、信長は極楽寺山からここへ前進して全軍の指揮を執ったと言われる。

▲ 織田信長戦地本陣跡に建つ信長の歌碑。「きつねなく 声もうれしくきこゆなり 松風清き 茶臼山かね」武田勢を誘き寄せることに成功した信長の勝利を確信する気分が伝わってくる。

▲設楽原歴史資料館の屋上から見た馬防柵。(2017年)

▲甘利信康の碑。古戦場いろはかるたには「雄々しくも立ち腹さばく甘利信康」とある。(2017年)

▲同じく甘利郷左衛門信康の碑。(2017年)

----備考----
訪問年月日 2010年6月5日
画像追加 2017年5月27日
主要参考資料 「長篠日記」
「三州長篠合戦記
「長篠合戦余話」他

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