(とびがすやまとりで)
新城市乗本
▲ 鳶ヶ巣山砦の主郭跡に建てられた「長篠之役鳶ヶ巣陣戦歿将士之墓」。
鳶ヶ巣炎上、
勝頼を走らす
「たわけ者っ」 設楽原茶臼山の本陣地で織田信長の怒声が響き渡った。 天正三年(1575)五月二十日、織田・徳川連合軍三万八千と武田勝頼率いる一万二千の軍勢が設楽原を流れる連吾川を挟んで戦機の熟するのを窺っていた。 この日、織田信長の本陣では織田・徳川の諸将が集まって軍議が開かれていた。信長に怒鳴られたのは徳川家康の重臣酒井左衛門尉忠次であった。 忠次は設楽原に進出した武田軍の後方を衝き、兵糧を焼き、退路を断つために鳶ヶ巣山砦とその支塁に対する夜討ちを信長に献策したのである。それが、並居る諸将の前で罵倒されたのである。諸将は日頃から差出推参な忠次に信長が立腹したのだと笑った。 ところが、軍議が終わり諸将が持ち場に戻ったところで忠次は信長からの使いで呼び戻された。 「忠次、鳶ヶ巣夜討ちは最上の策じゃ。ゆえに先刻は退けた」 信長の顔がめずらしく微笑んでいた。大勢の前では情報が漏れる恐れがあったからだ。忠次は信長の怒鳴った訳に気付いて平伏した。 「鉄砲五百をそちに授ける。味方にも気取られぬよう、今夜中に出陣せよ」 忠次は徳川陣に戻るや直ちに家康と打合せして奇襲隊を編成、密かに鳶ヶ巣山背後の吉川村に向かって出発した。 本隊は酒井忠次、松平康忠、牧野康成、松平伊忠、本多広高、菅沼定盈、奥平貞能ら三千余、鉄砲隊及び検使役として織田勢から武藤次久、青山新七郎、加藤市左衛門、道案内には近藤秀用、吉川村の豊田藤助といった面々の奇襲隊であった。豊川を渡って吉川村に到達した奇襲隊はここから山中に分け入り、松山越から菅沼山に至った。難路に加えて雨降りの中、行軍は難渋したという。 さて鳶ヶ巣山砦には武田勢が長篠城を攻囲した五月八日以来、勝頼の叔父武田兵庫信実が陣を置き、その配下約千人が君が臥戸、姥ヶ懐、久間山、中山の各砦(乗本の五砦と称される)に分駐していた。これらの砦は何れも長篠城の南側山地に連携して築かれていた。 この五砦の背後に迫った奇襲隊は黎明とともに鳶ヶ巣山砦をはじめ、各砦を次々と撃破して火を放った。奇襲成功である。砦の武田勢は山を下り、乗本村から有海原方面に敗走した。 この酒井勢の快勝によって籠城の長篠城兵も門を開いて敗走する武田勢を追い討ちした。 こうした長篠城方面の武田勢の壊走は設楽原に展開した武田本隊を動揺させた。退路を断たれ、兵糧を焼かれてしまったのである。動揺はやがて恐怖へと変化する。そうなってからでは遅い。総大将武田勝頼は一斉攻撃を下知した。 世に言う長篠設楽原の合戦である。鳶ヶ巣山砦以下五砦の陥落炎上が勝頼の背中を押したかたちとなった。重臣の反対を退けて軍勢を設楽原に進めた勝頼にとってはもはや乾坤一擲の勝負に出るほかなかったのである。 しかし戦いは武田勢の完敗に終わり、多くの重臣が斃れてしまった。武田家はこの後斜陽の一途をたどり、天正十年(1582)に天目山(景徳院)に滅ぶことになる。 ところで、鳶ヶ巣山砦を守っていた武田兵庫信実は奇襲隊の奥平貞能らに砦の背後から攻められて防戦むなしく討死して果てたが、その子信俊は武田滅亡時に家康に保護された。後に武州金窪二千石を拝領、善政を施したことで知られる。その子孫は旗本として徳川家に仕え続けた。 |
▲主郭跡から急坂を下りると曲輪状の平坦地に出る。ここからは長篠城とその周辺の状況が一望できる。凸印は長篠城址で、城内の様子が丸見えである。。 |
▲「鳶ヶ巣の戦い」説明板。 |
▲ 砦跡東側に設けられた駐車スペースの近くには金刀比羅神社の鳥居が建っている。主郭跡は鳥居の前の林道を歩いて数分のところにある。 | ▲ 砦の主郭部分。曲輪状の細長い平坦地となっているが、後世の開墾などによって明確に遺構とされるものは残っていないようである。 |
▲ 戦没将士之墓の隣に横たわる「天正の杉」。明治七年(1874)の台風で倒れたもので、樹齢300年以上と推定され、長篠合戦当時にはすでに存在していたという。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2009年3月21日 |
主要参考資料 | 「日本城郭全集」他 |