西山城
(にしやまじょう)

掛川市高田


▲ 西山城は吉岡城とも呼ばれるが何れもこの地域の地名である。
築城の時期、城主ともに不詳の城跡である。(写真・右側の茶畑の高い所が
主郭跡。その左の谷間が大堀切跡。さらに左がニノ曲輪のある丘である。)

吉岡原と本郷を望む城跡

 吉岡原は原野谷川中流域西岸に広がる台地である。現在の掛川市高田、吉岡の地域にあたり、西山城のことを吉岡城とも呼んでいる。城はこの台地の北端部に築かれており、台地上はもとより原谷の本郷一帯が俯瞰できる位置にある。

 原谷の本郷は鎌倉から戦国にかけての時代にこの地域を領し続けてきた原氏が本城としたところである。この西山城はその原氏に関連する城跡であると思われるが確たる史料に乏しく、築城の時期や城主に関しては不詳とせざるを得ないのが現状である。

 城館資料(静岡県の中世城館跡)には「遠江国調誌」に「…鎌倉に於て鶴岡八幡宮神前にて静御前の舞を右大将頼朝公御賞玩の時に原田荘西山城主工藤信濃守祐光…」とみえると紹介されている。原氏の祖とされる工藤氏の城跡とでも言いたいのであろうか。しかし、源平の争乱期にはすでに原氏四代目の清益が源義経に従って一の谷の合戦に参戦していることが「吾妻鏡」に記されており、この戦功によって原谷郷の地頭となったことは明らかなことと思われるので、工藤氏城主説には無理があるのではないだろうか。そもそもこの時代に丘陵の尾根を削平して城を構えるというようなことがあったのか、はなはだ疑問である。

 現在、城跡を訪ねると主郭とされる標高98mの丘はその東側斜面一帯が茶園となって山頂部にまで達しており、完全に破壊消滅状態となっている。この標高98mの丘の南は谷地を隔てて10mほど低い丘陵地となっていて、L字型に尾根上が削平されていることがかろうじて判る。ニノ曲輪と呼ばれる部分である。主郭とこのニノ曲輪の間の谷地は城館資料には大堀切としてあり、自然地形ではないようだ。今後のさらなる調査研究が待たれるところである。

 原氏が戦いに備えて城を築いたとすれば二つの時期が考えられる。一つは明応三年(1494)の今川氏による原氏攻撃の時期で、原氏は高藤城に籠って抵抗しているがこの時にこの西山城も物見台的なものとして築かれたのかも知れない。

 いま一つは元亀(1570-73)の頃である。原氏十五代頼延は今川没落後、武田氏に従い、徳川氏と争う姿勢をとった。頼延は各和城に籠城して敗れ、ついに原谷の地を退転してしまうが、この時期にこの西山城が支城のひとつとして築かれた可能性もある。

 他に「掛川の古城址」(林隆平著)には武田勢による遠州侵攻時における陣所となった可能性にも触れている。

 いずれにせよ、今後の調査研究に期待する他ない。


▲ ニノ曲輪から見た大堀切とされる谷間。

▲ 主郭とニノ曲輪の間の窪地も茶畑と化している。右奥の鉄柱付近からよじ登るとニノ曲輪に出る。

▲ ニノ曲輪の最高所平坦部。

▲ ニノ曲輪は東に向かってなだらかに傾斜している。

▲ 北東側から見たニノ曲輪の林。

▲ 南東側から見たニノ曲輪。

▲ 主郭跡付近から吉岡原台地と本郷方面の景色。

----備考---- 
訪問年月日 2012年3月3日 
 主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」
 ↑ 「掛川の古城址」他 

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