(かくわじょう)
掛川市各和
▲ 送電鉄塔の右側の丘陵が城址である。城址東側から望見。
今川一族の
意地を見せん
各和氏として諸記録に最初に登場するのが伊予守道空の名である。城址南にある永源寺の開基者でもある。これは同寺に天文七年(1538)付けの道空の寄進状が残っていることによる。したがって天文当時にはすでに各和氏を称して当地を支配する有力者となっていたのであろう。 ただ、その出自については明確でなく、また歴代の系譜についても判然としていないのが実情である。古記録によれば今川了俊の次男貞継が当地に居住して各和氏を称したのにはじまるとされている。いずれにせよ、遠江今川氏の支流であると見てよいかと思われるのである。 永禄十二年(1569)二月、徳川家康の遠江進出による掛川城攻撃に際して、周辺諸氏が次々と徳川方へ降参するなかにあって各和氏は今川方の旗を掲げて籠城の態勢をとったのである。ときの城主は各和三郎兵衛とのみ伝えられている。 掛川城を目指す徳川勢はまず各和城の近くの原川城を焼き払った。ここの原川兄弟は掛川城に籠り、今川氏への忠義を貫く覚悟を示した。 三郎兵衛も原川兄弟と同様に掛川城に籠るという選択肢があったであろうが、あえてわが城を死守する道を選んだのである。各和城は要害堅固とはいえないが、今川の流れを汲む一族としての意地と誇りが三郎兵衛を城に止めたのであろう。舅の茨一族とともに城を固めて徳川勢の来襲に備えた。 家康は石川日向守家成に命じ、久野城の久野宗能、本間十右衛門らを先手として各和城を攻めさせた。 攻防二日、城兵の多くが倒れた。 「掛川城の援軍も得られずに皆よく戦ってくれた。わしはここで腹を切る。皆はそれぞれに落ちのびるがよい」 三郎兵衛は城に火を放たせると自害して果てた。 その後、各和城には武田方の原氏が拠ったが元亀四年(1573)に再び石川、久野勢によって落城した。 |
▲ 曹洞宗大昌山永源寺。寺の裏側丘陵部分が 城址であるが、開墾等により遺構は消滅。 |
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画像の撮影時期*2005/08 |