本郷城
(ほんごうじょう)

掛川市本郷


▲本郷城は国人原氏が鎌倉期に地頭となって以来、
戦国期に至るまでその本拠地としたところである。
(写真・本郷城主郭部とされる長福寺)

原谷に繁栄した原氏の根拠地    

平安時代、藤原南家武智麿の四男工藤為憲が駿河に土着し、その支族はその近辺に広がった。為憲の曾孫出羽守師清は遠江中部の原野谷川流域(寺田館)に土着し、原氏を名乗って勢力を拡大した。

師清の曾孫・四代清益は源氏に属し、平家追討の功績を評されて本郷の地頭職を得た。これを機に、清益はその根拠地を本郷に移したとされている。

南北朝期、原氏は南朝方に付いて北朝方の今川氏に対して高藤城を築いて抗ったという。戦国期の十二代頼景の時にも今川氏親勢の攻撃を受けて領内は荒廃の極に達したとされる。

永禄十二年(1569)、遠江は西から徳川家康、東から武田信玄の進攻を受けて地元国人衆の立場は揺れ動いた。元亀二年(1571)、武田信玄は自ら大軍を率いて遠江中部を席巻した。この時、十五代頼延は武田方に属することになる。

頼延は武田の命を受け、徳川勢によって落城していた各和城に進出、徳川勢の来攻に備えた。

元亀四年(1573)、武田信玄の死去とともに徳川勢の失地回復戦がはじまり、各和城にも徳川勢が押し寄せた。同時に根拠地の本郷も徳川勢に押さえられたものと思われる。進退窮まった頼延は無念の涙をこらえて鎌倉以来の先祖の地を離れることを選んだ。西国小早川隆景を頼り、安芸国竹原へ落ちて行った。

 現在、本郷城の主郭跡とされるのは長福寺一帯の部分で東側の谷を隔てた高台が居館跡とされる。遺構は寺院、畑地、宅地となって変貌している。



▲主郭部とされる長福寺(左)と居館部(右)を隔てる谷。

▲長福寺の東側、谷を隔てた居館部の高台(道路の左側)。

▲本郷城跡の長福寺山門。

▲長福寺から居館部を見る。

▲居館部は畑地、宅地となり、遺構の確認は困難である。


----備考----
訪問年月日 2020年8月12日
主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」他

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