鯉山砦
(こいやまとりで)

浜松市浜名区三ヶ日町摩訶耶


▲ 鯉山砦は千頭峯城の南方視界を確保するための目の役割を
担っていたといわれる。遠江南朝勢力の中心であった井伊氏の支
塁のひとつとされている。(写真・主曲輪南側に設けられた虎口跡)

湖北城砦群、南方監視の砦

 浜名湖(猪鼻湖)の北側山稜には千頭峯城を代表的な城としてその支塁とされる多くの砦、曲輪、物見台などが展開して築かれている。湖北城砦群とでも言えるこれらの城砦は現在の浜松市北区三ヶ日町摩訶耶から同町宇志の山地に築かれている。

 通説としては南北朝の争乱期に南朝方井伊氏が西の防壁として千頭峯城(摩訶耶寺の城山のことであるが同城の所在については諸説ある)を築いて北朝幕府軍の攻撃に備え、三ヵ月の攻防の末に落城したとされている。

 この鯉山砦はその千頭峯城の支塁のひとつに含まれている。本城とされる千頭峯城の南1kmの山上にあり、本城の南方視界を確保する目の役目を果たしていたと言われている。確かに千頭峯城からはこの砦のある山が壁となって南の浜名湖は見えないが、ここに拠点を設けることにより猪鼻湖全体と浜名湖西岸の視界を得ることができる。もちろん三河との国境である本坂峠や宇利峠方面もその視界に入るので、まさに目の役割を果たしていた砦であったといえる。

 現在見られる遺構は楕円状に削平された山頂部とその南縁に土塁と虎口が確認できる。さらに一段下がって腰曲輪が設けられていることも見て取れる。北側尾根筋には堀切とその先に曲輪跡と思われる平坦地が見られる。

 東側尾根筋にも所々に平坦地と堀切跡らしき箇所が見られた。この尾根筋をたどれば千頭峯城はもとより中千頭砦、さらに東に向かえば尉ヶ峰を経て井伊氏の本拠地である井伊谷に至るのである。言い換えれば尾根筋そのものが戦略的に重要な存在であったといえる。鯉山砦はその尾根筋の最西端に位置しており、幕府軍との戦いでは真っ先に攻撃を受けたことであろう。

 井伊氏ら南朝方の敗退後、この砦を含めた湖北城砦群は捨て置かれたものと思われるが、先の遺構状況から戦国期に改修されたものと思われる。今川氏もしくは徳川氏が兵を留めた可能性が考えられるが、現状ではそれを明らかにすることはできない。


▲本曲輪南面の土塁。

▲北側の千頭峯城登城口から見た鯉山砦。中央の最高所が砦跡である。

▲ 林道からの登城口。小さな案内板が目印。10mほど直登すると山路に出る。

▲ 小さな案内板なので、見落とさないように進む。

▲ 尾根筋に出るとあとは西に向かうのみ。途中には堀切を思わせる窪みが見受けられる。

▲ 尾根筋をひたすら西に向かう。

▲ 二つのピークを越えて尾根筋を進む。視界が開けると南側に猪鼻湖とその向こうに浜名湖が見える。

▲ 二つ目のピークを過ぎてしばらく進むと本曲輪南面の腰曲輪にたどり着く。

▲ 本曲輪南側の虎口両側には土塁跡が残っている。

▲ 本曲輪。東西に細長い楕円形の曲輪である。

▲ 本曲輪北西側の堀切跡。

----備考---- 
訪問年月日 2012年3月25日 
 主要参考資料 「千頭峯城跡」」
 ↑ 「古城49号」他 

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