中千頭砦
(なかせんどうとりで)

浜松市浜名区三ヶ日町宇志


▲中千頭砦は南北朝の戦乱期に南朝の皇子宗良親王を迎えた井伊氏によって築かれた千頭峯
城砦群のひとつである。その規模と立地条件から中千頭砦が千頭峯城であるとの主張もある。
(写真・東側から見た砦跡のピーク)

中千頭砦主城説

 延元三年(暦応元年/1338)に南朝の皇子宗良親王を井伊谷に迎えた井伊道政は三嶽城を本城とし、その西方三河との国境に近い猪鼻湖北岸の山塊一帯に城砦群を構築して足利幕府軍の来襲に備えた。三ケ日の摩訶耶寺北側の山上に築かれた千頭峯城を主城とし、尾根続きの中千頭砦、鯉山砦、要所の峠にも曲輪が整備され、他に各高地には見張所が置かれた。その城砦群の数は確認されただけでも十数か所に及んでいる。

 なかでもこの中千頭砦は主城である千頭峯城よりも高所にあり、規模も主城に匹敵する大きさである。標高200m(千頭峯城は標高137m)の尾根上に東西約400mに渡り二つの曲輪で構築されていた。城郭研究の先達である見崎鬨雄氏や林隆平氏は中千頭砦こそが主城千頭峯城であると主張しているほどである。

 中千頭砦から尾根伝いに東へ風越峠を経由すれば奥山城へ、また尉ヶ峰城を経由すれば井伊谷城へと続いており、補給連絡の面を考えれば尾根最先端に位置する千頭峯城より有利な位置にあるといえる。

たしかに遺構の残存具合から見ると千頭峯城の方が山城としての遺構をはっきりと示してはいる。しかし、その遺構の大半が戦国期のものであり、南北朝期の城の状況を復元することは難しいだろう。

では中千頭砦が主城であったのであろうか。残念ながら城址とされる一帯の現状はみかん畑の造成により遺構の大半が消滅したとされている。現地を訪れても無許可で農園に立ち入ることは憚られ、遠目に観察するよりほかにない。唯一、地形図から類推するならば中千頭砦主城説も頷ける位置にあると言える。


▲中千頭砦は二つの高地を利用して構築された。これは尾根上100mに及ぶ東郭の様子。ほぼ全面がみかん畑となっている。

▲こちらは尾根上90mとされる西郭の高地である。

▲東郭(左)と西郭(右)の遠景。

▲中千頭砦の西南西500mの高所(標高260m)には見張所が置かれた所で、現在は展望台が建てられている。

▲展望台から東側の尉ヶ峰城のある山並を望見。

----備考---- 
訪問年月日 2022年2月26日 
 主要参考資料 「静岡県中世城館跡」他

 トップページへ遠江国史跡一覧へ