■ 城跡・史跡めぐり探訪記 2022

管理人ヨシ坊が訪ねた城跡・史跡の訪問記録です。
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12月7日(水)晴/平城宮(奈良市)

 古都奈良の世界遺産の構成遺産となっている平城宮跡は国の特別史跡であり国営公園として復元整備が進められている。2008年からはじまった整備事業で、現在は大極殿、大極門、朱雀門が復元完成している。

 観光の出発点としてバスターミナル、駐車場、案内所、みやげもの販売、食事、シアター等を供えた建物群が建ち並ぶ朱雀門ひろばが整備されている。コロナによる行動制限の緩和のためか修学旅行生たちの姿が多く見られた。

 それにしても公園内は広い。朱雀門から大極殿までは直線で800mはある。順路に従って進めば1.3kmほどになる。そこで便利なのがレンタサイクルである。短時間で見学を済ませたい場合は重宝である。

 大極殿の南門にあたる大極門が最近完成して現在はその付随施設である東楼が復元建設中となっている。公園内で最初に復元されたのが大極殿である。大極殿は朝賀の礼や外国使節の謁見などに使われた建物でその内部には天皇の玉座などが再現されている。

↑朱雀門

↑大極殿
12月6日(火)晴/牽牛子塚古墳天武・持統天皇陵飛鳥宮飛鳥寺(明日香村)

 一泊で奈良へ。日本の歴史の起点となった飛鳥時代を旅したくなった。

 日本史は教科書的には縄文、弥生、古墳と時代が進み、飛鳥時代になっていきなり物部氏や蘇我氏、推古天皇、聖徳太子といった具体的な人名が登場して歴史が始まる。

 まずは牽牛子塚古墳である。明日香村の各史跡を巡るには道が狭く、駐車も難しいところが多いため、レンタサイクルを活用する観光客が多い。これから向かおうとする牽牛子塚古墳はとくに車の乗り入れができなくなっているのでやむなくレンタサイクルで行かざるをえない。持病を持つ身としてはつらいが仕方ない。

 牽牛子塚古墳は近年の発掘調査とそれに伴う復元整備によって築造当時の景観が創出されている。この時期の天皇陵を示す八角形のこの古墳は「日本書紀」の記述から斉明天皇と間人皇女の合葬墓であると見られている。

 斉明天皇ははじめ皇極天皇として即位した女帝である。蘇我氏全盛の時代でもあった。その蘇我氏が滅ぼされた乙巳の変、大化の改新、百済救援と激動の時代を生きた女帝なのだ。

 近鉄飛鳥駅前でレンタサイクルを返却して後は車で移動である。飛鳥駅からすぐのところに国営飛鳥歴史公園高松塚周辺地区がある。この公園内に壁画で有名な高松塚古墳があるので寄ってみる。

 高松塚古墳の被葬者は不明であるが壁画の内容から高位の人物であることは間違いないとされる。それにしても極彩色の人物画は飛鳥時代の雰囲気を伝えて余りある。

 歴史公園からすぐのところに天武・持統天皇陵がある。天武天皇は壬申の乱に勝利して即位した天皇である。国史の編纂(古事記、日本書紀)、律令の制定、銅銭の鋳造などを実施、また天皇の称号をはじめて用いたとされている。

 そして天武天皇の崩御後は皇后であった讃良(さらら)皇女が即位して持統天皇となった。持統天皇は夫の意志を継いで律令体制の徹底と新たな都城の建設を完成させた。藤原京である。

 ちなみに天武天皇と持統天皇の子に忍壁皇子がいる。忍壁皇子は大宝律令の選定などに深く関わり、当時の国政の中心的立場にあった。先の高松塚古墳はこの忍壁皇子の墳墓との説もある。

 天武・持統天皇陵から北東1.3kmに飛鳥宮跡がある。飛鳥宮は皇極、斉明、天武、持統の各天皇が宮として使用したところである。それまでの宮は天皇一代で変遷するものであったのがこの頃になって継続使用されるものとなりつつあったのである。

 何といってもこの宮で起きた大事件は乙巳の変であろう。中大兄皇子が時の権力者蘇我馬子を誅殺し、蘇我氏を滅ぼした事件である。その後、中臣鎌足とともに大化の改新を実施して天皇中心の政治を確立した。

 この飛鳥宮遺跡群のひとつに酒船石遺跡がある。斉明帝の時期に造営された水を用いた祭祀施設と見られている石造物遺跡である。日照り続きの年、蘇我蝦夷が雨乞いの読経を行ったが効果が無く、斉明帝が天に祈ると雷鳴轟き大雨が五日続いたと言われる。祭祀能力の高い女帝であったようだ。

 そして飛鳥寺である。仏教に反対する物部氏を蘇我氏が滅ぼして仏教を導入したことは日本の歴史時代のはじまりと言ってもよいかもしれない。推古天皇の時代、蘇我馬子の発願によって創建された日本最初の寺院となった。

 本尊の飛鳥大仏は推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子らの発願によって造られたもので、後年の火災の影響も受けてはいるがほぼ飛鳥当時のままであるという。現代の私たちが飛鳥時代の推古帝や聖徳太子と同じ目線で参拝できるというのは奇跡であるといっても過言ではないだろう。

 私の本日の飛鳥の旅はこれで終わりであるが、明日香村には他にも多くの史跡が密集している。いつの日かのんびりと歩き回りたものである。

↑牽牛子塚古墳

↑高松塚古墳

↑天武・持統天皇陵

↑飛鳥宮

↑酒船石遺跡

↑飛鳥寺

↑飛鳥大仏
11月12日(土)晴/神田山砦(磐田市)

 天竜川に架かる飛龍大橋の南東、川の東岸丘陵上が砦跡とされる。神田山砦という。

 遺構は明確ではないらしく、また中腹には宅地が造成されており、自由な散策はできない。遠目に山容を確認する程度である。

 城館資料によれば、天正3年(1575)に徳川家康が二俣城を奪還する際に構築された城砦群のひとつであろうか、とされている。

 他に元亀3年(1572)の武田信玄による二俣城攻略時にも武田軍によって利用されたと見られている。

↑神田山砦
11月5日(土)晴/向笠城加賀爪屋敷匂坂代官屋敷(磐田市)

 向笠城は城館資料では新豊院の西側山上の古墳群地帯に比定されているが、城としての遺構は乏しく、実際に利用されたのかも怪しいと思われる。

 平時の居城(居館)は平地にあったわけで、地元の人達によって説明板と標柱が立てられている。河川改修や圃場整備などによって城跡の痕跡は想像することもできないが、旧来の字名による地名から城跡が指定されたものなのであろう。

 戦国期、向笠城の城主であった向笠伯耆守の五輪塔が新豊院の裏山中腹にあるということで訪ねようとした。しかし通行禁止となっており、断念した。

 向笠城の東を流れる敷地川の対岸に匂坂代官屋敷跡がある。この匂坂氏は同市匂坂の匂坂城主を本家とする支流で江戸期に当地に移り住んだとされ、旗本高木氏四千石の代官を勤めた。ここも標柱と説明板が畑地脇に立つのみである。

 新豊院の北、県道277号新笠梅橋西交差点から100mほどのところに加賀爪甲斐守屋敷跡がある。ここも標柱と説明板が立てられているはずのところであるが、造成工事によるものか撤去されていた。

 加賀爪甲斐守直澄が一万石を拝領して大名に列した際に遠江国内に六千五百石の所領があったため掛塚藩を立藩した。この時に構えられた屋敷が当地にあったとされるのである。藩は直澄の次の代で改易となるのだが、直澄の弟が当地に知行地を維持し続けたという。その屋敷門が向笠小学校近くの民家に移築されて現存している。

↑向笠城

↑加賀爪屋敷

↑匂坂代官屋敷
10月29日(土)晴/門奈屋敷秋鹿屋敷堀氏陣屋(磐田市)

 戦国期、今川家人門奈美作守正重が天竜村に住し、屋敷を構えていた。門奈屋敷である。門奈美作守は高天神城主福島氏に属し、後に小笠原氏に属したというが、詳細は未詳とされている。

 屋敷跡には金台寺が建立されて現在に至っているという。周辺は宅地化が進み、遺構らしきものは見られない。

 南北朝争乱期、秋鹿氏は足利尊氏に従い、その戦功により出雲国秋鹿郡(松江市)から遠江国中泉(磐田市)の地頭となり入部した。天正六年(1578)、秋鹿氏は中泉の地を徳川家康に献上して久保村に移転した。以後、秋鹿氏は久保の屋敷で明治を迎えた。

 現在屋敷跡は中泉歴史公園として整備保存されている。屋敷中庭にあった池やその周りの樹木などが剪定されており、散策路が整備されている。

 織田信長や豊臣秀吉に仕えた有能な家臣のひとりに堀秀政がいる。その秀政と次代の秀治を支えたのが秀政の従兄弟の直政である。その直政の三男が直之で、大坂夏の陣で大坂方の薄田兼相を討ち取るなどして大活躍、戦後は武蔵八幡山に千石を拝領して旗本・使番となった。

 この直之の系統が後に越後椎谷藩一万石を立藩することになる。そして直之の後を直景が継ぐのだが、その際に直之五男の直氏が千五百石を分知されて旗本に列した。

 この直氏の子直能のときに遠江国豊田郡に移され、陣屋が構えられた。宝永二年(1705)のことである。この堀氏は江戸定府の旗本であったから現地支配は代官によって行われた。

 現在は綺麗に管理された長屋門が現存している。

↑門奈屋敷跡の金台寺

↑秋鹿屋敷

↑堀氏陣屋
10月20日(木)晴/皆川陣屋岩井陣屋西島陣屋(磐田市)

 皆川陣屋は戦国期に下野国皆川城主で宇都宮氏や後北条氏と抗争を繰り返した国衆の皆川氏の流れを汲む陣屋跡である。

 陣屋跡そのものは畑地となり、遺構は見られない。跡地の北方に智恩斎という寺がある。そこの山門が陣屋からの移築とされている。またここには有名な一言観音の御堂がある。

 織豊期に活躍した皆川広照は慶長八年(1603)に松平忠輝の家老として信州入りし、飯山城主四万石の藩主となっている。ところが忠輝への諌言が逆手に取られて改易させられてしまう。その後、広照の子隆庸の夏の陣における活躍によって許され常陸府中藩一万五千石を賜るも隆庸の子成郷の代で嗣子なく断絶となった。

 しかし隆庸の次男秀隆が常陸国行方郡内に五千石を分知されて旗本に列しており、子の広隆のとき元禄十一年(1698)に当地へ三千石で移封された。

 岩井陣屋は鍋島公陣屋とも呼ばれており寛永十九年(1642)に旗本となった鍋島正茂を初代とする餅ノ木鍋島家の陣屋で当地に構えたのは安政二年(1855)である。15年後、大政奉還により陣屋を引き揚げたとあり、その詳細はよく分からない。

 この辺の陣屋ではめずらしく山間に構えられており、土塁や曲輪跡と見られる遺構が残されている。

 西島陣屋は旗本菅谷(すげのや)氏四千五百石の陣屋で、設けられたのは元禄十一年(1698)のことである。菅谷氏は常陸国小田城主の小田氏に代々仕えた国衆であった。それが豊臣秀吉の関東仕置きによって小田氏が所領没収となると菅谷氏は家康に仕え、旗本となった。

 現在、陣屋跡には何もなく、説明板が立てられているだけである。

↑皆川陣屋

↑岩井陣屋

↑西島陣屋
10月11日(火)晴/長者屋敷遠江国分寺(磐田市)

 磐田原台地には古墳が数多く点在しており、古代からこの辺りには有力な豪族が勢力を張っていたものと思われる。7〜8世紀に確立した律令体制によって各地に地域支配の役所として官衙が建設された。

 長者屋敷遺跡は発掘調査の結果、地方官衙的施設の一部と推定された。しかし鎌倉期、戦国期と何らかのかたちで利用されてきたはずであるが、史料的裏付けに欠けるとして明確にされていない。

 遠江国分寺跡は磐田市役所の北側に整備保存されている。築地塀跡や塔跡などが見ることができ、国の特別史跡に指定されている。

 8世紀の天平(729-49)時代は天然痘などの疫病が大流行して多くの犠牲者が出た。ときの聖武天皇は仏教に深く帰依し、全国に国分寺建立の詔を発したことから、遠江にも建立されたものなのである。

↑長者屋敷

↑遠江国分寺
10月1日(土)晴/本庄山砦(袋井市)

 砦跡は袋井市春岡にある。近くには山内氏の飯田城があり、その支城であったとも言われるがよくわからないようだ。地元の土豪宇刈七騎のひとり村松氏の砦跡というのが最も有力視されている。

 砦跡は春岡神社の西側山中にあり、堀跡などを見ることができる。また、南麓の極楽寺は居館跡であったとされており、砦跡は村松氏の詰城であったとの見方もできる。

↑本庄山砦
7月31日(日)晴/石田屋敷(長浜市)、関ケ原古戦場・床几場(関ヶ原町)

 彦根から長浜へ移動。西軍の指揮官石田三成の生誕地である石田屋敷跡を訪ねてみる。

 長浜市石田町の県道509号線石田バス停近くに「石田治部少輔三成屋敷跡」の碑が建てられている。この辺りが石田屋敷の北限にあたるらしい。そこから100mほど南へ路地を進み、右折すると石田会館がある。建物の前庭に石田三成公の像、出生地碑、顕彰碑、屋敷跡碑などいくつもの石碑類が建てられている。敷地内には「治部池」と呼ばれる池があるが、これはかつての堀跡の一部ということである。

 この石田会館の東100mほどに八幡神社がある。神社の裏手に「石田三成公一族及家臣供養塔」の碑が建ち、その奥の一画に多くの墓塔が集められている。また石田三成公辞世歌の碑も建てられている。神社の南側一帯はのどかな田園地帯となっている。戦国当時もこのような風景であったのだろうか。

 さてこれで帰るつもりなのだが、昨日に関ヶ原で肝心なところを訪ねてないことに気づいた。「家康最後陣地跡」である。古戦場記念館に隣接して陣場野公園として整備されている。記念館を見学した後に寄る予定であったのをすっかり忘れてしまっていたのである。名神関ヶ原インターから至近の位置なので寄って帰ることにした。

↑石田三成公の像と出生地碑

↑徳川家康最後陣地
7月30日(土)晴/関ケ原古戦場・笹尾山同・開戦地同・平塚為広碑同・大谷吉継墓同・松尾山(関ケ原町)

 関ヶ原古戦場めぐり。猛暑とはいえ、史跡めぐりで流す汗は気分がいい。

 関ヶ原古戦場には30を超える陣跡碑や史跡碑が建てられており、訪れる人を戦国の昔に誘ってくれる。今日はその数多くの史跡の中から私の好みでピックアップしたところを巡ってみる。

 まずは令和2年(2020)に開館した岐阜関ヶ原古戦場記念館に寄ってみた。風、振動、光、音で合戦場を体感させてくれるシアターは圧巻である。この記念館の南側に「東首塚」と「井伊直政陣跡」がある。

 記念館から笹尾山へ向かった。笹尾山の手前に「決戦地」の碑が建っている。合戦の日、西軍諸隊が総崩れとなった後、東軍諸隊は笹尾山の石田三成の陣めがけて殺到した。石田隊全滅。三成は再起を期して戦場を離脱した。まさに勝敗を決した地なのである。

 笹尾山の前面には広い駐車場が設けられている。関ヶ原といえば誰しも必ずここへ立ち寄るはずだ。西軍の実質的な指揮官石田三成の布陣した場所なのである。登山口の左右には馬防柵が再現されている。登山道は階段が整備されており、5分位で頂上に至る。頂上には「石田三成陣地」碑が建っており、また展望台が設けられて古戦場全体が見渡せる。

 笹尾山の南600mほどの所に「開戦地」碑と「小西行長陣跡」がある。開戦の激突となったのは東軍福島正則隊と西軍宇喜多秀家隊である。布陣図から見ると「開戦地」碑の位置が違うように思った。後日調べると、「開戦地」の碑は本来ここから南へ300mほどの所にあったのだが、圃場整備の関係で現在地に移されたということである。

 「開戦地」碑から1kmほど南西に「平塚為広碑」が建っている。平塚為広は合戦の年、美濃垂井1万2千石の大名として封じられたが、入部して治世の間もなく合戦に身を投じることになった。大谷吉継と懇意の仲であり、豪勇の士として知られている。合戦当初は善戦しつつも午後にいたり小早川、脇坂、朽木らの裏切りによって戦局不利となり、力尽きて戦場に斃れた。

 「平塚為広碑」から南西350mほどに若宮八幡神社がある。神社の鳥居前に駐車場が用意されている。この神社の背後の山中に「大谷吉継陣跡」と「大谷吉継墓」がある。大谷吉継は言うまでもなく石田三成の盟友である。三成の挙兵に最初は反対しつつもその義に感じ入り、ついには協力を約し、戦場の露と消えた。

 陣跡からさらに山中を5分ほど奥へ行くと「大谷吉継顕彰碑」とその墓がある。墓前には綺麗な花が供えてあり、墓参するひとが絶えないことを物語っている。吉継の墓の隣には吉継の介錯をした湯浅五助の墓が並んでいる。

 時間は正午を過ぎ、太陽は容赦なく古戦場を照り付けている。さあ、もうひと頑張りだ、松尾山登山である。松尾山は西軍小早川秀秋が布陣した所である。登山道は整備されているが、比高300mの登山はやはりきつい。健脚で40分、私は50分かかった。夏場の山城攻略では水分補給は欠かせない。皆さんもお忘れなく。

 さて小早川秀秋である。登山して気づいたのだが、なぜこんな高所に布陣したのであろうか。積極的に戦う気はなかったと思われても仕方がないだろう。眼下の戦いを半日ほど傍観した後、秀秋はついに西軍大谷隊に対しての攻撃を決意する。西軍に対する裏切り行為であるが、東軍にしてみれば戦局を一転させるきっかけになったのである。

 松尾山から下山して体力は限界。今回の古戦場めぐりはこの辺で切り上げ、彦根の宿へと向かった。

↑岐阜関ヶ原古戦場記念館

↑笹尾山 石田三成陣

↑開戦地碑

↑平塚為広碑

↑大谷吉継墓

↑松尾山から見た古戦場
5月3日(火)晴/家康最初陣桃配山(関ケ原町)、垂井城(垂井町)、長松城(大垣市)、大桑城(山県市)

 岐阜県への移動中、何年か振りで高速道路の渋滞にはまった。予定の1時間遅れで今回の史跡巡りが始まった。

 まずは関ケ原古戦場の徳川家康が最初に陣を置いた桃配山である。今年の夏はこの古戦場をじっくりと廻る予定なのだが、今日はその前哨戦のようなものである。

 天気は上々。桃配山の陣跡には「関ケ原古戦場徳川家康最初陣地」の石碑が建っている。壬申の乱(672)時、勝利した大海人皇子が兵士らに山桃を配ったという縁起をかついだのであろうか。ここから石田三成が布陣した笹尾山が望見できる。

 石田三成の挙兵に始めは反対しつつも必死の懇請に折れて協力を約したのが大谷吉継である。家康の会津征伐に従軍するために敦賀城を出て7月2日に垂井城に入った。ここで吉継は佐和山城の三成のもとへ行き、懇願を容れた。同時に1万2千石で垂井城主である平塚為広を吉継は説得して味方にした。為広は太身の豪刀を振るう豪勇の士として知られていた。その後、為広は吉継とともに関ケ原に散ることになる。

 垂井城から4km程大垣方面へ行くと長松城がある。この城は竹中半兵衛重治の従兄弟竹中源助重利が分知されて永禄の頃に築いたものである。その後重利は豊後高田一万石に栄転し、豊臣家臣の武光式部が入った。関ケ原時、武光は西軍に属したために東軍勢に攻め立てられて退去している。

 関ケ原とは関係ないが帰りついでに山県市へ迂回して大桑城へ寄る。天文4年(1535)に守護土岐氏がこの城を整備して守護所とし、城下町も整備した。その後、台頭した斎藤道三によって攻め落とされ、守護土岐氏は追放されることになる。

 そんな城跡であるがなんとも険しい山城であった。登山道は二つある。一つは健脚コースで距離2.1km90分、もう一つはさらに林道を車で登り途中から山に入るゆったりコースで750m30分というものである。当然、後者のコースで登城した。とはいえ、急階段と岩場の連続で決して「ゆったり」とは言えない登山であった。私の足で頂上まで40分だった。山頂にはミニチュアの天守が建っており、雄大な山並みが見渡せる。遠く岐阜城が見えた。

↑家康最初陣・桃配山

↑垂井城

↑長松城

↑大桑城
4月3日(日)曇/若神子城(北斗市)

 天気は小雨まじりの曇天。日本人は四季折々、天候の良し悪しにかかわらず、自然の美しさを愛でることができる。満開の桜は晴天下の方が鮮やかで見ごたえがあるが、曇空の下での桜も「花曇り」と呼んで愛でることを知っている。

 今日の目的地は北斗市の若神子城である。その前に同市の桜の名所である山高の神代桜へと向かった。曇天にもかかわらず臨時に設けられた駐車場は満車状態である。県外ナンバーの車も多く、ここの桜がいかに有名なのかが分かる。

 さて、若神子城である。城跡に近づくと甲斐源氏発祥の地の看板が目に入る。若神子城の築城が甲斐源氏の祖新羅三郎義光と伝えられているからである。武田滅亡後の天正壬午の乱では北条氏直が若神子城を本陣として陣取り、新府城の徳川家康と対陣したことで知られている。

↑山高の神代桜

↑若神子城
4月2日(土)晴/岩殿城(大月市)、要害城河尻塚(甲府市)

 昨年12月以来の二度目の山梨遠征。中部横断道の開通で隣県でありながら遠かった山梨県もかなり身近になったものだ。

 まずは山梨県東部の大月市まで車を進めた。目標は岩殿城である。岩殿城は郡内地方の国衆小山田氏の城である。

 天正十年(1582)三月、迫る織田勢から逃れるように新府城に火を放って城を脱した武田勝頼一行は重臣小山田信茂らとともにその居城の一つである岩殿城へ向かった。ところが先に城へ戻った小山田信茂は変節して勝頼一行の進路へ兵を出し、鉄砲を撃ちかけてきたのである。進退窮まった勝頼一行は田野で臣下が織田勢の攻撃を防戦する中、勝頼、信勝、勝頼夫人以下悉くが自刃、討死して果てた。

 この時期は桜の開花時期でもあり、岩殿城の築かれた岩殿山の中腹に整備された丸山公園は多くの花見客で賑わっていた。ここから見上げる岩殿城の峻険な岩肌は圧巻である。本来であればここから30分ほどで山頂へ行けるのであるが2019年の台風によって岩盤が崩落して登山道が通行止めとなっている。他のルートもあるのだが次の要害山登山のために体力を温存したいので下山することにした。悔しいが持病のある身としては致し方ない。

 大月市から甲府市へ反転。要害山に築かれた要害城へ向かう。要害城は武田氏の躑躅ヶ崎館の詰城として築かれた山城で武田信玄の誕生地としても知られている。

 山麓の専用駐車場に車を停め、登山開始だ。今回初めてトレッキングポールを使用した。なるほど、使ったほうが楽に歩ける。とはいえ、健脚の方なら30分もかからない登山であるが、私は途中何度も息を整えるために休みながらで40分かかった。中腹からは門跡や曲輪跡が段々に何ヵ所も築かれている。門が4ヵ所、曲輪が5ヵ所、簡単には本丸に辿り着けない構造になっている。夜間にはイノシシの大群が現れるようであちこちが掘り返されていた。

 要害山を下山して甲府市街へと向かう。躑躅ヶ崎館の近くに河尻塚と呼ばれる小さな史跡がある。

 武田氏滅亡後、織田信長は甲斐国の仕置きを家臣の河尻秀隆に任せた。秀隆は躑躅ヶ崎館を本拠地とせずに岩窪に館を整備して本拠としたという。しかし、秀隆の甲斐統治は三ヶ月後の本能寺の変で頓挫した。武田旧臣らの一揆によって館が襲われ、殺害されてしまったのである。現在は小さな塚に倒れそうになった石碑が残る寂しい状態となっている。

 今晩は湯村温泉で一泊、要害山登山の疲れを癒した。

↑岩殿城

↑要害山

↑要害城主郭 武田信玄誕生之碑

↑河尻塚
2月26日(土)晴/中千頭砦(浜松市北区)

 かなり以前から気になっていた砦跡であったのだが、現状はみかん畑となって地形も改変され、遺構の殆どは破壊されてしまったとされ、いままで足が向かずにいたところである。

 東名三ケ日ICの北2.5kmのところに「みかんの里農村公園」がある。言うまでもなく三ケ日町はみかんの産地として有名で、いたるところがみかん畑である。中千頭砦はこのみかんの里農村公園の西400mの尾根に築かれている。公園に駐車してあとは徒歩で向かう。15分ほどで砦跡のみかん畑の北側に到着する。

 土曜日であるがみかん農家には関係ないらしく、シーズンが過ぎても畑に入って作業をしている。砦跡の尾根に向かうにはみかん畑に侵入しなければならないが、無断立入するには気が引ける。遠目に地形を観察して引き揚げることにした。

↑中千頭砦 手前二つのピークが砦跡
1月16日(日)晴/尾奈砦(浜松市北区)

 遠江南朝の領袖として宗良親王を迎えて立ち上がった井伊氏。井伊氏は三嶽城を本城として周辺に城砦群を構築して幕府軍の来襲に備えた。その西の防塁として築かれたのが千頭峯城である。

 千頭峯城そのものも多くの城砦群を備えた一大軍事拠点であった。尾奈砦はその多くの城砦群のひとつである。猪鼻湖と浜名湖が通じる高所にあり眺望は良く南は太平洋岸の新居、舞阪まで見渡せる。東海道から押し寄せる幕府軍の動向をいち早く察知して千頭峯城へ報せる役目を担っていたと考えられている。

 砦跡の現状は掘割、曲輪などが残るとされているが、訪城のために道が整備されているわけではないので踏査には充分な注意が必要である。ネット上でも数人の方が登城を果たされているようだが、持病を持つ身としては断念せざるを得なかった。

↑尾奈砦 浜名湖側より