岩殿城
(いわどのじょう)

県指定史跡

            山梨県大月市賑岡町畑倉    


▲岩殿城は小山田氏の城として位置づけられてきたが、近年の研究では武田氏直轄の
城であったとされつつある。滅亡寸前の武田勝頼が最後の頼みとした城として知られる。
(写真・中腹の丸山公園から見上げた岩殿城)

武田氏直轄の城

 岩殿城の築かれた岩殿山は鎌倉期には修験の山として栄えた。その山を城郭化して関東三名城(駿河国久能城、上野国吾妻城)のひとつと言わしめたのがこの岩殿城である。南側山肌に露出した岩盤を見ればその難攻不落ぶりが窺えるというものである。

 その岩殿城、築城者がはっきりとしないのである。従来は郡内領(山梨県東部)の国人小山田氏の詰城であるとされてきたが近年では小山田氏の居館谷村館(都留市)から9km以上も離れていることから詰城説は否定されつつある。

 その小山田氏、もとは桓武平氏秩父氏の流れで武蔵国小山田荘(東京都町田市)を本領としていた。鎌倉期に甲斐国に移り、郡内に勢力を張った。南北朝期以降、甲斐守護武田氏とは姻戚となるなどして関係を持ったが、戦国期に至ると武田氏の家督継承争いに巻き込まれたり、また相模の後北条氏や駿河の今川氏との抗争もあったりして戦乱状態が続いた。

 岩殿城の築城時期に関しては未だに不明瞭であるが甲州街道の要所にあることから戦国争乱の渦中にあった国人小山田氏が物見程度の砦を設けたことは想像に難くない。

 永正四年(1507)の武田家家督争いで反信虎派に付いた小山田氏は相次ぐ戦いで敗戦を繰り返し、永正六年(1509)には武田信虎の郡内侵攻によって終には武田氏への従属が決定した。以後小山田氏は武田氏と姻戚となり、御親類衆として武田家臣団の先頭に立って活躍して行くことになる。

 一説には甲斐を統一した戦国大名武田氏が相模の後北条氏に対する警戒と小山田氏の目付的な役目を岩殿城に持たせたとし、武田氏直轄の城であったと言われている。

 武田氏は晴信(信玄)の代には信濃の大半を手中に治め、駿河、遠江、三河へとその版図を拡大した。小山田氏の家督を継いだ信茂も信玄の重臣として各地の戦場を疾駆、戦功を重ねた。

 信玄亡き後、勝頼の代となると織田信長、徳川家康との抗争が激しさを増し、天正三年(1575)の長篠の戦いにおける大敗を機に武田氏の勢力は減退して行くことになる。この後、武田氏は甲斐本国の防備を固める必要に迫られ、天正九年(1581)には躑躅ヶ崎の館に代わる新たな拠点の構築を開始した。韮崎の新府城がそれである。

 この同時期に武田勝頼が岩殿城の在番と普請を横目衆の荻原豊前守の配下に命じている。このことが、岩殿城が武田氏直轄の城であったことを証明している。

 天正十年(1582)二月、織田信長の甲州征伐が開始された。怒涛の勢いの織田勢の前に信濃の諸城は戦わずして落城、唯一激戦となった高遠城も一日で落城した。諏訪に進出していた武田勝頼は新府城に戻ったが、兵の離散が続き、防戦の手立ても難しいとして城に火を放って退去した。退去するにあたり、真田昌幸は上州岩櫃城への退去を進言したというが、勝頼は小山田信茂と長坂長閑の進言を容れて岩殿城へ向かった。

 しかし先行して岩殿城へ入った小山田信茂は変節して勝頼主従の受け入れを拒絶した。笹子峠では鉄砲まで撃ちかけて追い払ったのである。平和な郡内領を戦禍にさらすのに忍びなく、あえて卑怯者の汚名を甘んじて受け入れたとも言われている。

 行き場を失った勝頼主従は田野(鳥居畑古戦場)で織田軍の迫る中、自刃して果てた。戦後、小山田信茂とその家族は織田信忠の処断により甲府善光寺で処刑され滅亡した。

織田信長は河尻秀隆(河尻塚)に甲斐統治を任せたが六月の本能寺の変後、武田旧臣の一揆によって殺され、甲斐国内は徳川家康と北条氏直の争奪の場となってしまう。天正壬午の乱である。岩殿城へは相模津久井城主内藤綱秀が進出して確保したとされる。

和議成立後、甲斐は徳川家康のものとなり、家臣鳥居元忠を岩殿城主として郡内を治めさせた。天正十八年(1590)に家康が関東へ移ると豊臣系の浅野氏が郡内を領して小山田氏の本拠であった谷村に城を築いた。関ケ原後、甲斐は再び徳川領となり、鳥居元忠の三男成次が谷村城に入り立藩した。

鳥居元忠以後、岩殿城がいつまで維持されたのかは分からない。


▲迫力の岩盤むき出しの岩殿城。

▲丸山公園ふれあいの館。

▲公園専用駐車場。

▲駐車場から東へ150mほどのところに登山口がある。

▲しばらく上ると冠木門のお出迎え。

▲岩殿山中腹の丸山公園入口の門。

▲丸山公園から見上げた岩殿城。

▲公園から続く登山道。現在は通行止めであった。

▲桜の時期にはライトアップもされるらしい。

▲公園の名の由来であろうか、丸い丘がある。

▲遠く富士山が望める。
----備考----
訪問年月日 2022年4月2日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「山梨の古城」他

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