(とりいばたこせんじょう)
市指定史跡
山梨県甲州市大和町田野
▲ 古戦場跡に建てられた慰霊碑。景徳院から下流方向約100mほどのところである。
武田最期の戦場
小山田信茂の離反によって最後の拠り所をなくした武田勝頼の一行五十余人は天目山を目指して日川(にっかわ)沿いの崖道を進み、この日田野の地にたどり着いた。天正十年(1582)三月十日のことであった。五十余人のなかには勝頼夫人の侍女十六人が含まれている。皆足を血だらけにしての移動、逃避行であった。 この夜、小宮山内膳友晴が勝頼のもとへ馳せ参じた。小宮山内膳は以前に勝頼の勘気にふれ追放されていたのである。しかし主人の危難を聞いてたまらずに駆け付けて来たのである。離反者続きの武田家中にも内膳のような武士がいたのかと勝頼は前非を悔い、思わず涙したに違いない。 明けて十一日、勝頼と随従の一行は天目山を目指して渓谷の崖道を進んだ。しかし敵はすでに先回りして行く手を阻んでいた。土豪の辻弥兵衛が織田方に寝返り、三百人ほどで待ち伏せているという。 一行は土屋惣蔵ら数人を防ぎ手として残し、再び田野に戻った。そして鳥居畑と呼ばれる所で柵を結い、敵を迎え討つ支度を整えた。さらに勝沼方面からの敵に備えて小宮山内膳らが下流方向に前進して警戒にあたった。まさに進退窮まるとはこのことで、勝頼一行は皆今日が最期と覚悟を決めた。やがて、上流からも下流からも銃撃と斬り合いの喧騒が山間にこだまして勝頼主従の耳に聞えてきた。 下流方向に前進していた小宮山内膳ら数人の一隊は四郎作(しろうつくり)で織田軍の滝川一益、河尻秀隆ら四千の大軍を相手に死闘を演じ、壮絶な最期を遂げた。 上流方面でも土屋惣蔵らが奮戦したが(土屋惣蔵片手切り)支えきれずに後退してきた。 いよいよ織田軍が勝頼の陣する鳥居畑に殺到してきた。 山間の渓谷に男達の最期の絶叫がこだまし、女達の自決するうめき声が満ちた。それを背中で聞きながら勝頼は夫人と嫡子信勝とともに自刃して果てた(景徳院)。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2007年3月3日 |
主要参考資料 | 「現地説明板」他 |