(たかとおじょう)
国指定史跡、百名城
長野県伊那市高遠町東高遠
▲高遠城は諏訪一族の高遠氏の本拠地に武田氏の手によって伊那
支配の拠点として築かれた。武田氏の末期、唯一織田氏の攻撃に
抗戦したことで知られる。江戸期には高遠藩の府城として続いた。
(写真・本丸東側の虎口。問屋門と石積みは廃城後のもの。)
武田の末路に花を添えた高遠の城
高遠の地は南北朝期以来、諏訪氏の支族高遠氏の領するところであった。戦国期、高遠氏の当主であった高遠頼継は本家の諏訪支配の野望を抱いて甲斐の武田晴信と連携し、天文十一年(1542)の諏訪攻めに加わって出陣している。諏訪惣領家の諏訪頼重(上原城、桑原城)は武田に降伏して切腹、諏訪氏は滅びた。諏訪の地は武田氏と高遠氏で二分されたが、三ヵ月後に高遠頼継は上原城の武田勢を追い払って諏訪一帯をその支配下に置いた。武田晴信は直ちに出陣して諏訪の高遠勢を攻撃、高遠頼継は根拠地高遠への撤収を余儀なくされた。 |
▲問屋門から本丸にかけて積まれた石垣。元々、本丸虎口であったが、この石積みは廃城後のものとされている。 |
▲二の丸東側の土塁。 |
▲高遠城址北ゲート入口。 |
▲橋の両側は二の丸と三の丸を隔てる空堀である。 |
▲城址公園入城口。観桜期は有料だが、訪れた時(夏季)は無料開放状態であった。 |
▲二の丸。城内の木々はすべて桜。観桜期の人混みが嘘のように人がいない。 |
▲天下第一桜の碑。城址の桜は明治7年(1874)頃から植え続けられ、現在のようになった。 |
▲二の丸から空堀越しに本丸への入口に架かる「桜雲橋」。もともと木橋が架かっていた。 |
▲桜雲橋を渡った本丸虎口にある「問屋門」。高遠城下本町の問屋役所にあった門で、昭和20年代に町の有志によって買い戻され、募金によって現在地に移築された。 |
▲問屋門から本丸にかけて積まれた石垣。 |
▲本丸。無数の桜が緑の葉を揺らしていた。 |
▲本丸に移築された太鼓櫓。元々は三の丸東の搦手門にあったという。廃城時、無くなることを惜しんだ人々の寄付で維持され続け、朝8時から夜8時まで偶数時に太鼓が鳴らされていた。昭和18年(1943)の戦時下、敵機に気づかれては危険とのことで中止されたそうだ。 |
▲本丸南側の南曲輪。 |
▲二の丸東側の土塁と空堀。 |
▲城址公園北ゲート口の城址碑。 |
▲二の丸北側三の丸の藩校「進徳館」。 |
▲進徳館。最後の藩主内藤頼直は「興国のもとは藩士を育成するにあり」として万延元年(1860)に藩校を開いた。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2016年8月18日 |
主要参考資料 | 「日本城郭総覧」 |
〃 | 「信州の城と古戦場」他 |