岩村城
(いわむらじょう)

県指定史跡、百名城

岐阜県恵那市岩村町


▲ 岩村城の東曲輪下から見上げた本丸石垣。急峻な山頂に遺された
迫力のあるこの城址は日本三大山城のひとつに数えられている。

戦国に散った
      悲運の城主たち

 岩村城創業の祖とされる加藤景廉、彼は源頼朝が伊豆の山木館を襲撃(治承四年/1180)して平家追討の旗揚げをした当時からの頼朝の随臣で、その戦功により文治元年(1185/又は建久六年(1195)とも云われる)に遠山庄の地頭に補せられた。景廉の子孫遠山氏と岩村の関係はこの時にはじまる。

 遠山を姓として名乗ったのは景廉の長男景朝からである。景朝は承久の乱(1221)に出陣し、そして岩村に帰還している(「吾妻鏡」)から、すでにこの頃には当地に居館を構え、一党を成していたことになる。

 景朝の子孫は恵那郡各地に拡がり、各々城砦を構えて発展した。戦国期には宗家の岩村城を中心に明知城苗木城、阿寺城、飯羽間城、串原大平城、安木城を拠点として勢力が拡大された。これらの城に分居した遠山一族を遠山七頭と呼び、特に有力であった岩村、明知、苗木の三家を遠山三人衆と呼んだ。

 戦国期に入り、岩村城主としてその名が登場するのが頼景で、永正年間(1504〜21)のひとである。

 その後、景友、景前、景任と続き、元亀三年(1572)に至り、ついに岩村城は武田信玄の将秋山信友によって攻略され、遠山宗家は滅びることになる。

 戦国の荒波をもろに受けたこの当時をいま少し見てみたい。

 遠山氏として最後の岩村城主となった景任は織田信長との関係を重視し、信長もまた美濃を固めるために遠山氏の力を必要としていた。信長は叔母を景任に嫁がせ、妹を苗木城主遠山直廉に嫁がせていたのである。信長はさらに景任のもとに五男の坊丸(勝長)を養子として入れるほど、岩村城の確保に力を入れていた。

 元亀三年当時、信長は本願寺、浅井、朝倉と敵対して四面楚歌の中にあった。信長を討ち滅ぼすのはこの時ぞとばかりに武田信玄がこの年の十月に数万の大軍を率いて躑躅ヶ崎館を出陣した。これに先立ち、秋山信友勢三千余と山県昌景勢五千余が先発している。山県勢は三河方面に進み、秋山勢は東濃へ進撃した。

 この東濃へ向かった秋山勢の目的が岩村城の攻略であったのだ。

 ここで登場するのが「女城主」である。この言葉は岩村観光の標語のひとつになるほど全国的にもめずらしい存在なのである。

 秋山勢に岩村城が包囲された当時、城主である景任はすでに病没しており、その夫人が甲冑に身を固め、城の防戦を指揮し、秋山勢を悩ませたというのである。力攻めでは容易に落ちぬとみた秋山信友は坊丸に家督を継がせると女城主を説得し、さらに彼女を妻にすることで岩村城を開城させたという。

 恵那市教委発行の「岩村城の畧史」をはじめ多くの書がこうした女城主の活躍を物語っている。

 この秋山勢の東濃進攻とそれを遠山勢が迎え撃ったとされる上村合戦、そして遠山景任の死、岩村城の落城等に関する年次については諸説錯綜していてよくわからないのである。

 私の手元に「上村合戦の真相」(三浦一郎・著)という小冊子がある。二十数年以上前に手にしたものであるが、著者の的確な歴史分析による上村合戦とそれに至る経緯が述べられている。

 それによると、武田の秋山信友による東濃進攻が元亀三年秋、岩村城の落城が同年十一月十四日、景任の死は十二月であろう、とある。死因は病没とは思えず、討死又は落城後に処刑されたのであろう、としている。

 そうすると、歴史のロマンに水をさすようであるが、女城主の存在はなかったことになる。

 いずれにせよ、景任夫人は秋山信友の妻となり、坊丸は人質として甲府に送られたということだけは確かである。

 ついでながら、遠山衆が三河の奥平氏の援軍を得て秋山勢の進攻を阻止しようとした上村合戦であるが、これは岩村落城後の十二月二十八日で、明知城主遠山景行が岩村城を占領した秋山勢を攻撃すべく出陣したもので単独行動であったとしている。

 さて、激動の元亀三年が暮れ、この翌年に三河野田城を攻め落とした武田信玄が四月に亡くなった。その後を継いだ武田勝頼は武田軍の健在ぶりを誇示するかのようにして、天正二年(1574)に岩村城へ大軍を率いてやってきた。そして未だに武田に従わぬ東濃の諸城を壊滅させると意気揚々と甲府へ引き揚げて行った。

 翌天正三年(1575)五月、長篠合戦で武田勝頼は織田・徳川の連合軍によって壊滅的な大敗を喫した。

 大勝を得た信長は好機とばかりに翌六月、三万の大軍を岩村城奪還のために進めた。大将は嫡男信忠であった。信忠は岩村城の北西正面の丘(現・大将陣公園)に陣取り、攻城を指揮した。

 はじめ織田勢は勢いにまかせて力攻めに攻めたが、天険と必死の城兵に阻まれ、持久包囲に攻城方針を変えて長期戦となった。

  十一月、勝頼の救援もないまま、糧食の欠乏と城兵の疲労は極限に達した。秋山信友はこれ以上の籠城は無意味であるとして城兵の助命を条件に降伏開城を決した。

 ところが信長は、信忠の本陣(大将陣)にやってきた信友とその妻となった叔母を捕らえて処刑することを命じたのである。無論、城兵も皆殺しにしてしまった。禍根を断つ、信長流のやり方である。

 信長によって奪還された岩村城には川尻鎮吉が天正十年(1582)三月まで城主となった。

 鎮吉に替わって森蘭丸が城主となり、城代として各務兵庫が入った。森蘭丸は三ヵ月後の本能寺の変で信長とともに果ててしまい、東濃は蘭丸の兄長可の支配するところとなった。天正十二年、長可は長久手の合戦で討死、弟の忠政がその後を継いだ。忠正は慶長四年(1599)信州川中島(松代城)に移り、森氏三代による岩村支配は終わった。この間、一貫して各務兵庫が城代を務めており、岩村城が近代城郭としての体裁を整えたのもこの時期であった。

 森忠政の後、岩村城に入ったのは田丸具忠である。関ヶ原戦当時、具忠はその去就に迷ったまま城に居たため、西軍に付いたものとみなされて東軍勢によって追われてしまった。この東軍勢は苗木城を森長可によって追われ、徳川家康のもとにいた遠山友政であった。

 慶長六年(1601)、岩村藩二万石の藩主として松平家乗(大給松平)が封じられ、寛永十五年(1638)まで二代続いた。

 松平氏の後、丹羽氏信が入封、元禄十五年(1702)まで五代続いた。

 丹羽氏の後、松平乗紀(のりただ)が封じられた。乗紀の家系は先の城主であった松平家乗の継嗣乗寿の次男乗政を祖としていた。

 乗紀は文教政策に熱心で文武所(後の知新館)を設けて子弟の育成につとめた。この政策は代々受け継がれ、文教藩岩村の名を広めた。

 乗紀の後、松平氏は七代続き、慶応四年(1868)朝廷帰順に藩論を統一して官軍に加わり、明治を迎えた。

▲ 岩村城の山麓の藩主邸跡に復元された太鼓櫓と表御門。

▲ 本丸西側の高石垣。

▲ 本丸埋門。本丸北側の出入り口である。

▲ 本丸。海抜717mで日本の山城のなかでも最も高所にあると云われる。

▲ 本丸に建てられている「岩村城歴代将士慰霊碑」。

▲ 菱櫓跡。二の丸東側にせり出している。地形に合わせた結果このようになり、櫓も上から見ると「く」の字型に建てられていた。

▲ 本丸六段の石垣。最奥の高石垣の崩落を防ぐための補強のための石垣で江戸時代後半の技法という。

▲ 「霧ヶ井」。岩村城は別名「霧ヶ城」と呼ばれるが、その由来となった井戸である。敵が攻めてきた時に、城内秘蔵の蛇骨をこの井戸に投げ入れるとたちまち霧が立ちこめ、城を覆い隠したという。

▲ 藩校知新館の正門。昭和59年に藩主邸跡に移築された。藩士の子弟は八歳になると全員が入校して二十歳で卒業した。

▲ 岩村藩の儒学者「佐藤一斎」の銅像。平成14年に藩主邸跡に建てられた。一斎の弟子には佐久間象山、横井小楠、渡辺崋山らがいた。

----備考----
訪問年月日 2008年5月
主要参考資料 「日本城郭全集」他

トップページへ全国編史跡一覧へ