市指定史跡
岐阜県恵那市岩村町
▲ 大将陣の全景。道路の左側の木々に覆われた丘がそれである。現在は
大将陣公園として管理されている。目前のこの道路は国道363号である。
怒りの岩村城攻め
元亀三年(1572)、武田の将秋山伯耆守信友によって岩村城が落とされた。 遠山氏の本城である岩村城は織田信長が東濃を確保するために重視していた城で、城主遠山景任に叔母を輿入れさせ、さらに五男の坊丸を養子に出すほどに力を入れていた城である。それが秋山の手によって開城させられ、あろうことか叔母は秋山の妻となり、坊丸は人質として甲府へ送られてしまったのである。 すぐにでも岩村城奪還の軍を出したかった信長であったが、四囲の状況がそれを許さなかったのである。本願寺との対決と浅井、朝倉の敵対がそれである。 翌年、武田信玄の死によって状況は一転して信長に有利に動き出した。信長は将軍義昭を追放すると一気に浅井、朝倉を攻め滅ぼしてしまった。そして天正三年(1574)五月には徳川家康と共同で三河長篠において武田勝頼の軍を叩きのめす大勝利を収めたのである。 六月、信長は岩村城を取り返すのは今だとばかりに三万の大軍を発した。総大将は信長の嫡男信忠である。 信忠は本陣を岩村城の真正面にある丘に据えた。その場所がこの丘である。 信忠は、はじめ力まかせに攻めたてたが、天険の山城の守りは堅く、長期持久戦に方針を切り替えて落城を待つことにした。 一方の秋山信友、本国甲斐からの援軍もなく兵糧も尽き、城兵の疲労も極限に達したのを見かねて、城兵の助命を条件に和議開城を決意した。寒さの厳しくなる十一月のことである。 城を明渡した信友とその妻となった信長の叔母、部将の座光寺左近、大島森之助ら五人は捕らえられ、信長の命により逆磔にされて処刑された。その場所もこの丘であったと伝えられている。 処刑されるとき、信長の叔母は、 「わが怨念によって、おのれの家運は一代かぎりで滅ぼしてくれようぞ(「岩村城の畧史」)」 と絶叫して果てたという。 城内に残る兵はもとより、城を退去した城兵と女子供までもが木の実峠に至る山道で織田軍によって皆殺しにされた。 助命の条件など信長は聞き入れるつもりはなかったのである。それほどに信長にとっては武田への憎しみと叔母の裏切りが許せなかったのであろう。 この丘は岩村城の悲惨な歴史を伝える場所なのである。 |
▲ 大将陣からみた岩村城跡。正面遠景の山が城址で、その麓には復元された太鼓櫓が見える。 |
▲ 「史蹟大将塚之碑」。丘の一画にあるこの塚は秋山信友とその妻となった信長の叔母、他三人の城将が処刑されたあと葬られた場所と伝えられている。 |
▲ 「巌邑(いわむら)城址碑」。岩村城の歴史を後世に残すため、明治24年(1891)に建てられた。 |
▲ 大将陣公園となった丘には招魂社や忠魂碑も建てられている。 |
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訪問年月日 | 2008年5月 |