明知城
(あけちじょう)

県指定史跡

岐阜県恵那市明智町


▲明知城は明知遠山氏累代の居城である。戦国期には武田氏や
森氏との争いで幾度となく城を追われたが、徳川家康に従い続けた
ことで関ケ原後には旧領を回復し、旗本として明治に至っている。
(写真・明知城本丸跡。)

執念の故地奪回

 源頼朝が平家追討の旗揚げをした当時からの随身で後に美濃遠山庄の地頭となった加藤景廉が美濃遠山氏の祖である。景廉の嫡男景朝は岩村(岩村城)に本拠を構え、その子孫は恵那郡各地に拡がった。

 ここ明知に城館を構えたのは景朝の子三郎兵衛尉景重である。宝治元年(1247)のことと伝えられている。後に明知遠山氏は岩村、苗木の遠山氏とともに遠山三家又は遠山三人衆と呼ばれることになる。

 南北朝の争乱期、岩村遠山氏は南朝に属し、明知遠山氏は足利尊氏(北朝)に属した。明知城が山城として整備され始めたのはこの頃からではなかったかと思われる。

 戦国期に入り、景朝の十三代の裔景行は弘治元年(1555)頃に南信濃から東濃に勢力を伸ばした武田信玄の麾下に小里氏(小里城)とともに属した。

 しかし、永禄八年(1565)頃から織田信長による東濃調略が活発となり、明知をはじめとする遠山各氏は今度は織田方に属した。

 元亀三年(1572)、武田信玄は大軍を率いて遠江へ進撃、二俣城三方原合戦で徳川家康を痛撃した。同時に重臣秋山信友の軍勢を東濃へ進撃させて十一月に岩村城を攻略させた。

 これに対して遠山各氏と小里氏などが連合して秋山勢と戦った(上村合戦)が惨敗、明知城主遠山景行をはじめ多くが討死してしまった。城主を失った明知城には景行の次男友治(長男景玄は元亀元年死去)が立ったが、彼もまた天正二年(1574)の武田勝頼の攻城を受けて討死してしまう。

 城と城主を失った家中では景玄の遺児の一行(かずゆき)が幼少であることから景行三男の利景を還俗させてその養嗣子とし、三河足助氏(真弓山城)のもとに避難した。

 天正三年(1575)五月、長篠に武田勝頼を大敗(設楽原合戦)させた織田信長は嫡男信忠を大将とする三万の軍勢を東濃へ進撃させた。織田軍は明知城をはじめとする遠山氏の諸城を奪還して岩村城を攻め落とし、秋山信友らを処刑した(大将陣)。この時、遠山利景らは明智城に帰還したとされる。

 天正十年(1582)、利景は足助氏との縁(妻が真弓山城主鈴木重直の娘)から徳川家康に属して甲州征伐に従軍した。本能寺の変後、羽柴秀吉から森長可に属して人質を出すことを要求されたが、翌年に明知城を脱して再び足助氏のもとに身を寄せた。東濃を支配する森長可は激怒して人質を殺し、明知城を奪った。

 天正十二年(1584)、小牧・長久手合戦。四月九日、羽柴秀吉の派遣した岡崎中入り軍を長久手に破って大勝利を収めた家康は遠山利景に明知城の奪還を命じた。東濃の支配者森長可は長久手の戦場に斃れ、城は僅かな森勢が守っていただけであったから、利景らの奪還作戦は成功した。しかし、秀吉と織田信雄が和睦するに及び、明知城は再び秀吉方の城とされ、森長可の弟忠政のものとされた。利景らは明知城を明け渡して足助氏のもとに身を寄せた。

 天正十六年(1588)、嫡系の一行が平沢峠(長野県南佐久郡)で遭難死してしまう。以後、利景が名実ともに明知遠山氏を率いて行くことになる。天正十八年(1590)の家康関東移封に際してもこれに従い、上総国に所領を得た。

 慶長五年(1600)の関ケ原合戦に先立ち、家康の命を受けた利景は子の方景、遠山友政(苗木城)、小里光親(小里城)らと共に東濃へ駒を進め旧領奪回の行動を起こした。この当時東濃は西軍方の田丸直昌(もと田丸城主)の所領となっており、明知城には原土佐守が城代として入っていた。九月二日、利景らはまず明知城を奪還、続いて小里城そして苗木城、岩村城も奪還することができた。

 慶長八年(1603)、利景は東濃奪還の戦功で土岐・恵那郡内六千五百三十石を拝領して旗本となった。元亀・天正の動乱期以来三十余年にしてようやく明知城を回復することが果たせたのである。二代方景の時、元和元年(1615)以降は廃城となり、城下に陣屋を構えた。明知遠山氏は江戸定府となり、陣屋には代官(村上氏)を置いて明治に至った。


▲出丸入口の城門石垣跡。

▲本丸跡に立つ説明板の縄張図(管理人加筆)。

▲城址東側登城口の駐車スペース。

▲駐車スペースからの登城口。

▲登城口から堀底道を行くとすぐに搦手砦と呼ばれる曲輪が現れる。

▲搦手砦から少し登ると大きな窪地に出る。

▲この窪地は貯水池とされている。丸木樋を使ってここへ水(飲料水)が溜められていたらしい。

▲貯水池からさらに登ると尾根筋に出る。まずは左手(西側)の出丸へ向かう。

▲出丸跡。かなり広い曲輪で、本丸以上に重要視されたといわれる。

▲出丸の周囲は切り立った絶壁となっており、猿も登れずに引き返したことから「猿戻し」と呼ばれている。

▲出丸に残された穴の穿たれた柱石。陣屋の礎石であったらしい。

▲再び尾根筋を東側へ向かう。

▲二ノ丸入口手前に腰曲輪の案内板が立っている。本丸の周囲を巡っている。

▲本丸手前の二の丸。

▲二の丸から本丸虎口へ登る。

▲本丸跡。県指定史跡の標柱が立つ。

▲本丸跡。

▲城址西麓の陣屋跡の堀。

▲陣屋跡の北側にある龍護寺には明智光秀公の御霊廟(おはか)がある。

▲遠山氏累代の墓所。龍護寺は遠山利景によって建立され、明知遠山氏の菩提寺となった。

----備考----
訪問年月日 2017年3月11日
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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