苗木城
(なえぎじょう)

国指定史跡、続百名城

岐阜県中津川市苗木


▲ 三の丸大矢倉跡から望む苗木城本丸跡。巨岩の上には天守の柱梁が復元され、
展望台となっている。往時はこの上に板葺きの天守が建てられていた。我々が
想像する瓦葺きに白漆喰の天守とは趣きの違った天守が建っていたのである。

百敗屈せず、
    岩頭の故城

 苗木遠山氏は岩村城(恵那市岩村町)の遠山氏を宗家とする遠山七頭、又は遠山三人衆と呼ばれるもののひとつである。

 苗木遠山氏がいつ頃から独立したのかはよく分からないが、大永年間(1521〜27)に遠山一雲入道昌利がここ苗木高森山に城を移したと伝えられており、それ以前の数代がここから北北東約7`の植苗木(中津川市福岡)の広恵寺城を居館としていたようである。

 戦国のきな臭さが増す時代に対応して一雲入道昌利が本格的な山城の必要性を感じたのであろう。木曽川を天然の堀としたこの苗木城は付知川に沿って北上する飛騨路(国道257)を押える要衝といえる。

 一雲入道昌利はこの苗木城を子の景徳に継がせた。しかし景徳に嗣子なく宗家岩村城主景前の次男(三男ともいわれる)左近佐直廉が養子となって城を継いだ。直廉の兄景任は後に岩村城最後の城主として滅びる。

 この頃(天文年間/1532〜55)、遠山氏は尾張の織田氏と協力関係にあり、左近佐直廉は織田信長の妹を室に迎えていた。ふたりの間に生まれた姫は後に(永禄八年/1565)信長の養女として武田勝頼に嫁し、信勝を生んだ(姫は産後他界した)。

 元亀三年(1572/年次には諸説あり)、直廉は飛騨萩原城(下呂市萩原)の三木次郎左衛門と合戦、これを破るが、この時受けた矢傷がもとでこの秋に没してしまった。これを聞いた織田信長は飯羽間城(恵那市岩村町飯羽間)主遠山右衛門佐友勝に苗木城を継ぐことを命じたのである。

 友勝は飯羽間城を長男友忠に譲って苗木城に入った。しかし、間もなく病没したため、信長は飯羽間城を継いだ友忠に苗木城主となることを命じた。

 友忠は長男友信に飯羽間城を継がせ、次男友重を阿寺城(中津川市手賀野)に置き、三男友政(十七歳)と共に苗木城に入った。

 元亀三年は岩村城が武田の秋山信友によって落とされた年である。直廉が戦った飛騨の三木氏は織田との同盟関係にあったのであるから、この時期に直廉は武田方に降っていたのかもしれない。直廉亡き後に信長が飯羽間遠山氏を苗木城主に充て、懸命に苗木城の維持を図ろうとしたことがうかがえる。

 天正二年(1574)二月、武田勝頼が東濃制圧のために岩村城に進出、翌月に明知城を落とした。

 この時に、武田に属する木曽義昌の軍が中山道を南下して阿寺城を攻めた。阿寺城は苗木城主遠山友忠の次男友重が守る城であった。友忠は三男友政とともに城を出撃、木曽勢と戦い、これを撃退した。戦いに勝ったとはいえ、友重を救うことはできなかった。友重、享年十九歳であったと伝わる。

 その後も友忠、友政父子は信長に対する協力を惜しまず、長島一揆討伐や越前朝倉攻めなどに参陣したという。

 天正十年(1582)、武田が滅び、続いて信長が本能寺に倒れた。これを境に友忠、友政父子の苦難の道がはじまる。

 天正十一年五月、秀吉の東濃平定の命を受けた森長可率いる二千二百の軍勢が苗木城に迫った。天険の要害に籠って城とともに滅びるか、和睦開城して城を脱し、臥薪嘗胆、捲土重来を期すか、友忠は後者の道を選んだ。

 城を逃れた友忠、友政父子と随従の家臣一行は果てしなく続く山塊を幾重にも越えて遠江浜松城に向かった。浜松城の徳川家康のもとで菅沼小大膳定利の一手に加えられたと伝えられている。

 友忠らの去った苗木城は森氏の支配下に置かれ、続いて川尻直次が一万石の城主となり、城代として関治兵衛治景が入った。

 この間に、友忠は苗木の風景を再び見ることなく浜松で世を去った。

 父の遺志を継ぐ友政は家康のもとを離れることなく、関東移封にも従い、榊原康政に属して上州館林に居住した。

 慶長五年(1600)、時節到来。友政は中山道を西に進撃する徳川秀忠の軍陣にあった。

 この出陣に先立ち、友政は家康に苗木城の奪還を申し出、美濃と木曽路の地理を詳細に報告したという。これに感じた家康は鉄砲30挺と弾薬2万、黄金などを友政に与えた。

 上田城攻めを中断して関ヶ原へと急ぐ秀忠軍の先鋒隊として友政は遠山次郎左衛門、奥田次郎左衛門、伊藤五郎左衛門、小倉猪右衛門、井口与三左衛門らの家臣を率いて苗木城を目指して駆けた。

 友政ら苗木衆は中津川駒場に放火、落合から木曽川を渡河、瀬戸から城を攻めたと伝えられている。城の東側から迫ったことになる。

 この時点ですでに関ヶ原の本戦は終わっていた。石田方の西軍は敗北して苗木城主となっていた川尻直次も討死したことが城代の関治兵衛の耳に達していたようである。関治兵衛は戦わずして開城した。友政らはさらに進んで岩村城をも奪回した。

 この戦功により友政は恵那、加茂両郡の内一万五百二十一石を拝領、初代苗木藩主となった。

 艱難を耐え忍び、城を回復しえた友政の胸に去来したものは何であったろうか。友政の頬には感慨無量の涙がこぼれ落ちていたに違いない。

 本丸跡に建てられた城址碑の碑文の中に、
ほこにまくらしきもをなめ ひゃっぱいくっせず ときやいたり よくきゅうぶつをふくす… 
「 枕戈嘗膽  百敗不屈  時乎至矣  克復舊物 … 」
 と刻まれている。

 その後も友政は大坂冬・夏の陣にも出陣して家康の恩に報いんとした。元和五年(1619)、苗木にて没、六十四歳であった。

 苗木藩は外様でありながらも譜代格として遇され、遠山氏の国替えもなく十二代続いて明治を迎えた。

三の丸北側の「大矢倉」跡。巨岩を取り込んだ石垣構築は城内随所に見られ、苗木城ならではの景観である。
▲ 城址西側山麓の遠山氏菩提寺雲林寺の塔頭・正岳院跡に建つ「苗木遠山史料館」。登城前に、館内の復元模型を見ておくことをおすすめする。

▲ 内郭三の丸入口である「風吹門」跡。右側に門番所が置かれ、中間一人が昼夜交代で詰めていた。

▲ 三の丸広場から本丸に通じる「大門」跡。この門を入ると右側が二ノ丸となっている。

▲ この坂道の先が「菱櫓門」跡で、その先を右に曲がるといよいよ本丸である。

▲ 菱櫓門から本丸方向を見上げる。石垣の右が「本丸口門」跡である。石垣手前の屋根の下には「千石井戸」と呼ばれる井戸がある。どんな日照り続きでも枯れることなく、千人の用を達したという。

▲ 本丸天守跡。かけや造りというもので展望台となっている床面は天守三階部分の床の復元ということである。

▲ 天守がまたがる巨岩には柱の穴跡が残っている。

▲ 明治24年(1891)、城跡が時とともに忘れ去られるのを痛み、苗木城下に居住する旧藩遺臣士族によって建てられた城址碑。

▲ 天守跡から東南方向を望見。眼下に木曽川が流れ、遠く恵那山(中央の高い山)が見える。

----備考----
訪問年月日 2008年5月
主要参考資料 「日本城郭全集」

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