戦国期に上原城を築いたのは諏訪氏である。平安後期に諏訪社の神官が武士化して諏訪氏を名乗ったのに始まる。諏訪社は上社と下社があり、上社は諏訪氏、下社は金刺氏が大祝(おおほうり・神官の最高位)となった。鎌倉期、諏訪氏は執権北条氏の御内人(嫡流家家臣)として幕政にも関与したと言われている。幕府滅亡後の中先代の乱は諏訪氏主導で起きたもので、南北朝期には反足利の立場から南朝方に付いた。しかし、下社の金刺氏が足利方に付いたことから上社と下社の対立抗争に発展して戦国期に至ることになった。
文安六年(1449)、諏訪氏は守護小笠原氏と下社金刺氏の連合軍と戦い、下社を焼き払っている。こうした出兵や領内統治に対応していたのは大祝家ではなく惣領家の役目であった。自然と惣領家の力が大きくなり、これが大祝家との確執を生み、対立抗争へと発展して行くことになる。康正二年(1456)には惣領諏訪信満と大祝諏訪頼満が対立して争乱を起こしている。
下社との抗争、大祝家との対立という事態に対応するためであろうか、惣領信満は文正元年(1466)に上原へ居館を設けて城下町を形成したとされている。以後、上原城主は信満の後、政満、頼満、頼隆、頼重と続く。
文明十五年(1483)一月、ついに大祝継満が暴挙を起こした。惣領政満とその一家を前宮神殿に招き、酒肴で酔い潰した後に全員殺害してしまったのである。事件後、惣領家方の諸氏(千野、矢崎、福島、小沢、守矢)は結束して継満を襲撃した。惣領家方は継満の父頼満を討ち取り、継満を諏訪から追放した。継満は妻の実家である高遠へ落去したのである。
この一件で惣領家では五歳の頼満を惣領と大祝に就かせて分裂状態にあった二家を統合したのである。
下社との抗争も依然として続いており、永正十五年(1518)に至り、壮年となった頼満の攻撃によってついに下社大祝金刺昌春を諏訪から甲斐へ追い出して諏訪郡をほぼ統一した。
享禄元年(1528)頼満は嫡男頼隆(享禄三年病死)と共に金刺昌春を擁護する武田信虎と国境(神戸、境川/富士見町)で戦い、武田勢を撃退した。享禄四年(1531)には頼満は進んで甲斐に討ち入り、武田勢と塩川に戦っている。こうして頼満は諏訪氏の全盛期を築き、諏訪氏中興の祖と称えられた。
天文四年(1535)、頼満は武田信虎と境川(現・立場川と推定されている)に参会して和睦した。この時、上社不出の宝鈴を持ち出して鳴らし、和睦の誓いをたてたことが伝えられている。
天文八年(1539)、頼満、没。嫡孫頼重二十四歳が惣領家を継ぎ、頼重の弟頼高が大祝となった。翌年、頼重は武田との盟約により、信虎の娘禰々十四歳を娶った。天文十年(1541)には信虎と共同して佐久、小県へ出兵している。諏訪と武田の関係はきわめて良好であったといえる。しかし、諏訪郡内では大風雨、洪水、疫病が続いており、人々は疲弊していたのである。
しかも、甲斐では信虎が追放されて晴信が当主となる政変が起きた。諏訪と武田の関係も変化しつつあったのである。晴信は高遠頼継と下社方と連携して諏訪攻略を画策した。
天文十一年(1542)六月三十日、武田晴信は二万の大軍を率いて諏訪へ進入、御射山(富士見町)に布陣した。上原城の頼重のもとに物見の報告が入り、緊急事態を告げた。しかし、頼重は和睦関係にある武田勢の攻撃はあり得ないとして戦いの準備をしなかったという。
翌七月一日、武田勢は長峰(茅野市宮川)に前進してきた。万余の大軍を目前にして頼重は慌てた。急いで陣触れしたものの三百五十騎、七百人(諸説あり)ほどしか集まらなかったが、健気にも城を出て矢崎原(茅野市塚原)に対陣した。
翌日も武田の大軍を前にして対陣を続けていたが、高遠頼継が伊那勢を率いて背後に迫ってきたのである。諏訪一族である高遠氏が武田方に寝返ったことに頼重は怒ったがこのままでは自滅してしまう。止む無く上原城下に撤収した。頼重は軍議の席でこの場に留まり討死すると主張したが、家臣らに諫められて夜中桑原城へ退却した。上原城はこの時、諏訪方によって焼かれたという。
翌三日夜、頼重は敵情視察のために桑原城の尾根を下った。ところが城の守りに就いた兵たちには大将が城を落ちたものと見えたのである。頼重らが城に戻ると兵が逃げ去った後で、一族近臣二十人ほどが残っていただけと伝えられている。
四日朝、開城を迫る武田の使者が頼重のもとに来た。降伏以外に選択の余地はなかったが、高遠頼継の裏切りは許せなかったのであろう、高遠討伐を条件に加えたとも言われている。
頼重と頼高は甲斐に連行され、二十日に切腹させられた。ここに諏訪惣領家は滅亡した。
諏訪氏を滅ぼした武田晴信は宮川を境に西側を高遠領、東側を武田領として上原城に守兵を置き、甲斐に引き上げた。
九月、諏訪支配を目論む高遠頼継は上原城の武田勢を追い払い、下社領も侵して諏訪郡一円を占拠した。武田晴信は頼重の一子寅王を擁して直ちに諏訪へ出陣した。武田勢は諏訪旧臣を糾合して安国寺門前(茅野市)にて高遠勢と激戦の末、撃退した。
以後、諏訪は武田領となり、信濃攻略の拠点となる。上原城には板垣信方を城代として留め、諏訪郡代として統治にあたらせた。
天文十七年(1548)に板垣信方が上田原の戦いで戦死した後は室住玄蕃允、続いて長坂虎房(釣閑斎)が城代となった。
翌年、長坂虎房は高嶋城(諏訪氏上諏訪/茶臼山)を取り立てて修築、移転した。代官所も高嶋城下に移した。以後、天正十年(1582)の武田氏滅亡まで吉田信生、市川昌房、今福昌和が郡代として続いた。
上原城は高嶋城移転後も維持されたようで、天正十年二月に謀反の木曽義昌討伐のために武田勝頼が一万五千の軍勢を率いて上原城に着陣したとされている。
しかし、織田・徳川勢の多方面からの進撃がはじまり、勝頼はその対応ができないまま新府に引き上げ、終には田野山中(景徳院)に滅亡してしまった。
その後、諏訪支配の拠点は高嶋城から湖岸に築かれた高島城へと移り、上原城は武田滅亡とともに廃城となったものと思われる。
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