新府城
(しんぷじょう)

国指定史跡・続百名城

山梨県北韮崎市中田町中條


▲新府城は守勢に立たされた武田家の新たな拠点として急遽築城が進められた城である。
しかし時すでに遅く、城を守る兵もなく、武田勝頼は城に火を放って退去、滅亡へと向かった。
(写真・大手枡形虎口と富士山)

武田の名城、家康を救う

 天正九年(1581)、武田勝頼は穴山梅雪らの進言を容れて韮崎の地に新府城の築城を決したと諸書は伝えている。武田領を取り巻く情勢は日毎に厳しさを増しており、織田、徳川、北条に対しては守勢一方の状況であった。これらの外圧に抗するためにも要害堅固な新たな拠点を構築する必要があったのである。

 この年正月には真田昌幸らが普請奉行に任じられたものと思われ、二十二日付で昌幸は分国内(武田領)の先方衆に賦役を布告した。着工は二月十五日で昼夜兼行の突貫工事で進められたことは言うまでもない。

 着工から一月余りの三月二十二日、遠江高天神城が落城した。徳川家康の駿河進出を封じる最重要拠点であったこの城を勝頼は救援することができなかった。六月には普請奉行の真田昌幸が上州方面の対北条戦のために出向しており、後任は昌幸の弟信昌が引き継いだとされる。

 築城工事は間断なく進められ、九月末頃には大方完成したと言われるが、勝頼は伊豆方面に出陣して戸倉城を攻めるなどしていたため、移転は年末の十二月二十四日にきらびやかに行われたという。

 しかし、天正十年の正月早々には木曽義昌の謀反が伝えられ、直ちに山県三郎兵衛尉、今福筑前守、横田十郎衛門尉ら三千余騎を信州へ出陣させた。

 二月二日、勝頼自身も一万五千を率いて新府城を出陣、諏訪上原城へ向かった。この翌日、織田信長は武田領への一斉進攻を命じた。

 二月十二日、織田信忠が岐阜城を出陣、十日足らずのうちに南信を制圧して高遠城へ迫った。

 二十八日、勝頼は諏訪から新府城へ戻る。すでに兵の離散も激しく新府城に入った時には千ほどに減っていた。さらにこの日、駿河の穴山梅雪が離反して徳川家康に降った。

 三月二日、高遠城が落城した。もはや織田軍の甲斐進攻は時間の問題となった。兵の離散が続く新府城では防戦の態勢もとることができず、勝頼は小山田信茂、長坂長閑の勧めを受けて岩殿城へ向かうことにした。この時、真田昌幸は上州岩櫃城への退去を進言したという。

 三月三日早朝、勝頼は火を放って新府城を退去した。退去時六百人ほどであった一行も日毎に減り続け、笹子峠では頼みの小山田信茂の離反によって鉄砲を撃ちかけられてしまう。この頃にはすでに織田信忠とその軍勢が甲府に進駐していた。

 進退窮まった勝頼一行五十二人(うち女衆十七人)は三月十日、田野の郷で夜を明かした。翌日、迫り来る織田勢を残り僅かな随臣らが防戦(土屋惣蔵片手切り鳥居畑古戦場)するなか、勝頼と嫡子信勝、そして勝頼夫人は自害して果てた(景徳院)。

 武田滅亡後、織田信長は河尻秀隆を甲斐の領主とした。しかし六月の本能寺の変後の国人一揆により秀隆は討死して無主の地となり、徳川家康と北条氏直による天正壬午の乱へと発展して行く。

 この乱で家康は焼亡した新府城跡に本陣を据えた。徳川勢八千である。北方から迫る後北条勢五万に対する拠点としたのである。北条氏直は若神子城(北杜市)に布陣して周辺の城(谷戸城など)の防備を固め、新府城の徳川勢に対した。

 しかし、七里岩の断崖上に築かれた新府城はさすがの北条氏直でも容易に手が出せなかったようである。両軍はにらみ合いのまま十月に至り、和睦に同意して双方軍を引いた。

 もし、武田勝頼が一万の兵で新府城に籠城していれば歴史はどうなっていたか分からない。


▲新府城本丸。

▲本丸跡に立つ絵図。

▲駐車場のすぐ側には城の北側を廻る堀とそこに突き出るように築かれた出構の遺構が目を引く。

▲駐車場から県道17号をしばらく南へ歩くと登城口である。

▲登城口から本丸へと一直線に続く石段。

▲石段による直登を避けて帯郭の道を南へ進む。

▲城址の南端部に築かれた虎口。

▲大手枡形虎口である。

▲虎口を出た丸馬出から枡形を見る。

▲道は東三の丸と西三の丸の外側を周って本丸へと続く。

▲本丸には多くの石碑が建ち並ぶ。

▲甲斐国主武田氏四百年追遠の碑。

▲石祠・武田勝頼公霊社。

▲小塚長篠役陣歿将士之墓。

▲長篠役陣没将士分骨之碑。

▲大塚長篠役陣没将士之墓。

▲藤武神社。

----備考----
訪問年月日 2021年12月4日
主要参考資料 「日本城郭全集」
「武田勝頼と新府韮崎城」他

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