岐阜城
(ぎふじょう)

国指定史跡、百名城

              岐阜県岐阜市天守閣        


▲ 岐阜城は標高329mの金華山上に築かれている。山頂本丸の天守閣からは
広大な濃尾平野を一望することができる。その風景から、道三が国盗りの、
そして信長が天下布武の拠城とした思いが私たちの胸にひしと伝わってくる。

天下布武の堅城

 長良川河畔の金華山上に築かれている岐阜城はいうまでもなく織田信長が永禄十年(1567)に美濃へ進出して天下布武の居城とした城である。岐阜とは周の文王が岐山に拠って天下を平定した故事に因んで名付けられたものである。

 岐阜城と名付けられる以前、この城は稲葉山城または井ノ口城と呼ばれており、その歴史は鎌倉時代にまでさかのぼる。

 伝えられるところでは、最初にこの山上に城を築いたのは二階堂行政で、建仁元年(1201)のこととされている。行政は鎌倉幕府政所別当を務め、その子孫は代々政所執事を世襲したという官僚系の武士であった。どのような経緯でここに城が築かれたのかはよく分らないが、京に対する押えであったともいわれる。

 行政の後、城主は娘婿の伊賀朝光、次男光宗、三男光資、その子光房と続いた。光資の時に稲葉氏を名乗ったと伝えられている。

 稲葉氏の後、創築者二階堂行政の玄孫にあたる行藤が城主となった。正元元年(1259)のことといわれる。

 この二階堂行藤を最後に城は無主となって放置されたようである。

 それからおよそ百五十年後の応永十九年(1412)、美濃守護土岐氏の守護代斎藤利永が稲葉山の古城跡を修築して城を構えた。利永は文安二年(1445)に守護所である革手城の近くに加納城を築いて居城としたといわれる。その後再び稲葉山城は廃されたともいわれるが、斎藤氏の持ち城として細々ながらも維持されていたのではないだろうか。

 この廃城同然になっていた稲葉山に目を付けたのが斎藤道三であった。

 斎藤道三は、その来歴に関しては一介の油売りであったとか京都妙覚寺の僧であったとか言われており、小守護代長井氏の推挙で土岐頼芸に仕え、その後政敵を次々と倒し、ついには守護の座につけた頼芸までも追放して美濃一国の主となってしまったことで知られる。近年では道三は長井新左衛門尉の子であったとされ、父子二代で美濃の支配者となったとも言われている。

 当時、長井規秀と名乗っていた道三は大永五年(1525)、守護代斎藤利茂と戦って稲葉山城を攻め取った。この時に頼芸を守護の座に付けたとされる。

 その後、小守護代長井氏、次いで守護代斎藤氏の名跡を継ぎ、斎藤利政と名乗った。美濃の行政の中心にあって要害堅固の稲葉山城を手に入れた利政こと道三は天文八年(1539)にこの城を改築したことが伝えられている。

 天文十一年(1542)、道三は頼芸を美濃から追放して実質的な美濃の国主となった。

 天文十六年(1547/又は天文十三年とも)、尾張の実力者織田信秀が大軍を催して美濃へ進攻、稲葉山城に迫った。加納口の戦いとと呼ばれるこの戦いで道三は織田勢の隙を衝いて城を打って出、これを散々に撃ち破った。織田勢五千人が討死、信秀はわずか数人で逃げ帰ったといわれる。稲葉山城の天険が美濃を守った戦いであったといえるかもしれない。

 翌、天文十七年(1548)、織田側の申し出で道三は和睦に応じ、娘濃姫を信秀の嫡男信長に嫁がせた。そして天文二十三年(1554)、城と家督を嫡男義龍に譲り、鷺山城に隠居した。これは、国衆の支持を失った道三が隠居に追い込まれたものとみられる。

 この二年後の弘治二年(1556)、道三と義龍は稲葉山城下長良川の戦いで激突、道三はあえなく戦場に斃れた。この戦いに際して道三は美濃を譲る旨の遺言状を信長に宛てたと言われている。

 永禄四年(1561)、義龍が急死して子の龍興が城主となる。

 永禄六年(1563)、小牧山城に居城を移した織田信長による美濃攻略が本格化する。

 同時に一部の家臣のみを重用する龍興の姿勢は国を弱体化させるもとになった。翌年(永禄七年/1564)の竹中半兵衛らによる稲葉山城占拠はそれを象徴する出来事であった。

 永禄十年(1567)、西美濃三人衆と呼ばれる稲葉良道、安藤守就、氏家直元らの内応を得た信長は直ちに稲葉山城を攻め、龍興を敗走させた。

 これより信長は稲葉山城を岐阜城と改め、天下布武の居城としたのである。山頂に天守、山麓には天主が建てられ、豪壮な信長の居館が整備された。

 翌、永禄十二年(1569)には、信長は足利義昭を奉じて武力上洛を果たし、その後は岐阜城を拠点として伊勢平定、姉川の戦い、浅井・朝倉攻め、長篠合戦にとまさに東奔西走の日々が続いた。

 天正三年(1575)十一月、信長は嫡男信忠に岐阜城を譲り、翌年二月には築城工事中の安土城に移った。

 天正十年(1582)、信忠は本能寺の変の際に明智光秀勢に襲われて二条御所に斃れた。

 城主を失った岐阜城には信長三男の信孝が入った。翌年、信孝は柴田勝家と共に挙兵して羽柴秀吉と対決したが、賤ヶ岳合戦時に兄信雄に岐阜城を攻められて降伏、後日切腹させられた。

 信孝の去った後、岐阜城主となったのは池田恒興嫡男の元助である。元助は天正十二年(1584)の小牧・長久手合戦の徳川勢との戦いで父と共に討死したため、弟の輝政が城を引継いだ。

 天正十八年(1590)、池田輝政は三河吉田城主となって岐阜を去り、豊臣秀吉の甥秀勝が城主となった。秀勝はこの翌年、文禄の役に出陣して唐島(巨済島)で病没したため、次いで織田秀信が岐阜十三万石の城主となった。

 秀信は信忠の嫡男で、本能寺の変後に秀吉によって担がれた三法師である。はからずも、祖父信長、父信忠が居城とした岐阜城に織田嫡流三代目として戻ったという感がある。

 慶長五年(1600)、秀信は石田三成(西軍)の挙兵に応じて岐阜城に籠城した。

 これに対して豊臣恩顧の大名でありながら三成憎しで家康方に付いた福島正則や池田輝政ら三万五千が家康(東軍)本軍の先鋒として岐阜城に迫った。

 関ヶ原の戦いの前哨戦となった岐阜城の戦いは東軍先鋒の一気攻めによってあっけなく落城してしまった。城主秀信は剃髪して高野山に送られ、慶長十年(1605)わずか二十五歳で没した。

 関ヶ原合戦後、徳川家康によって加納城が築かれ、岐阜城はついに廃城となり、その歴史に幕を下ろした。

 「織田信長居館跡」。西側山麓に築かれた信長居館跡への入り口。巨石を並べた通路は折れ曲がった虎口となっている。後に多く見られる近世城郭の石垣による虎口や枡形の先駆をなすものといえる。居館跡は現在も発掘中であり、その全貌が明らかにされるのが待ち遠しい

▲「風雲萬里」織田信長公の騎馬像。
 ▲ 岐阜公園の玄関口として平成21年(2009)に整備された公園入口の正門。
▲ 「若き日の織田信長」像。岐阜公園正門前に移設され、多くの観光客を出迎えている。

▲ 金華山山頂へ登山路を麓から登ることもできるが、ロープウェイを利用すればわずか数分で山頂近くに到達できる。

▲ 天下第一の門。ロープウェイ駅から天守閣に至る登山路入口に設けられている。

▲ 堀切跡。法面はコンクリで固められている。

▲ 二の丸門。冠木門と白壁は昭和50年(1975)に設けられた。

▲ 昭和31年(1956)に鉄筋コンクリ3層4階建てで完成した復興天守。

▲ 天守台の石垣は復興天守建設時に積み直された。

▲ 天主閣の北西方向には道三が隠居した鷺山城(中央の小さな山)が見える。

▲ 天主閣の東側に建てられた岐阜城資料館。

▲ 本丸南面の石垣。

▲ 二の丸東側の本丸井戸。岐阜城には4ヵ所の井戸があるが、湧水の井戸はひとつもなく、雨水や岩の間からしみ出る水を溜めていた。長期籠城を想定するときわめて不利である。

▲ かつては七間櫓(現展望台)から二の丸まで土塀が築かれていたといわれ、昭和61年(1986)にその一部が復元された。

▲ 織田信長居館跡の発掘は現在も続けられている。これはロープウェイから見た発掘中の様子である。

▲ 金華山西麓に築かれた織田信長居館跡への入り口。

▲ 織田信長居館跡の発掘でみつかった斎藤氏時代の石積み遺構。

▲ 板垣退助の像。現在の岐阜公園の地は板垣退助遭難の地でもある。明治十五年(1882)四月、自由党総理として遊説を終えたところを暴漢に刺された。この時に「板垣死すとも自由は死せず」の言葉を残したといわれている。

▲ 「道三塚」。弘治二年(1556)四月、斎藤道三は嫡子義龍と長良川を挟んで合戦となった。一般的には道三の実子ではなく土岐頼芸の子であったことを知った義龍が道三を引退に追い込み、さらに道三の実子二人を殺し、ついには合戦に至ったものとされている。戦後築かれた塚は長良川の洪水の度に流されたため天保八年(1837)に現在地に移された。
----備考----
訪問年月日 2011年8月12日
主要参考資料 「日本城郭全集」
 ↑ 「名城をゆく 1 岐阜城」他

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