吉田城
(よしだじょう)

続百名城

豊橋市今橋町


▲ 本丸北西の隅櫓である鉄櫓(くろがねやぐら)。昭和29年に鉄筋コンクリート造によって再建された。

東三河の旗頭

 吉田城は永正二年(1505)に、当時一色城(豊川市)主であった牧野成時(しげとき)によって創築された。成時は法名を古白という。一般的には牧野古白と呼ばれることが多い。

 築城の経緯は、駿河の戦国大名今川氏親の命によって渥美郡の戸田氏に対抗するために牧野古白が築いた、というのが通説となっている。城の名は今橋城と呼ばれた。吉田城と呼ばれるようになるのはしばらく後のことである。

 そして翌年には早くも落城という事態に見舞われ、古白は討死してしまった。攻めたのは今川勢であったとも、また西三河の松平長親によって攻め落とされたとも云われている。また、古白は討死せずに瀬木城(豊川市)に逃れたとも云われている。瀬木城は牧野氏が一色城に移る以前の牧野氏の本城であった。

 ともかく、牧野氏の退散した今橋城の城主となったのは戸田金七郎宣成で、田原城(田原市)主戸田憲光の次男であった。

 この古白による築城、そして落城に至る経緯に関しては諸説あって一致していないのが実情である。史料によって年次や牧野氏の系譜に食違いがあるのでなおさらである。

 当時の牧野、戸田、今川の三氏の関係から推測するならば、こういうことになろうか。まず、渥美郡の完全支配を目指す戸田宗光(田原城主)が今川義忠亡き後の今川氏の停滞期を狙って二連木城(吉田城の東2`)を築き、今川方の船形山城を落とすなどして今川方の三河進出を阻んでいた。そこで今川氏は牧野氏と誼を通じ、戸田氏に対抗した。この過程で築かれたのが今橋城(吉田城)であった。ところが三河・遠江国境における戦い(船形山城の戦い)で戸田宗光が討死するなどして戸田氏は今川氏に降ってしまった。これで牧野・戸田を配下にした今川氏は今橋城を拠点として西三河への進出路が確保できたと喜んだ。ところが、今橋城の牧野古白が協力的でないのである。東三河の旗頭を自負する古白としては、今川が戸田と組んだことが気に入らなかったものと思われる。

 こうして永正三年(1506)に今橋城は今川氏親の軍師で後の北条早雲に率いられた今川勢と戸田勢によって攻められて落城した。ということになろうか。これはあくまで個人的な愚論であることをお断りしておく。

 さて、戸田氏の城となってしまったが、牧野氏も指をくわえていたわけではない。永正十六年(1519)に牧野成三と信成が今橋城を奪回したのである。背景には戸田氏を信用しきれない今川氏の後押しがあったという見方もある。

 その数年後、吉田城と改名された。牧野氏の系譜については曖昧でよく分からないので成三、信成が古白の子なのか孫なのか、また二人は兄弟なのか父子なのかすら断定されていないのである。

 享禄二年(1529)、西三河の驍勇松平清康(家康の祖父)が東三河に進攻、吉田城に迫った。

 三河物語によれば、松平勢を前にした城主牧野信成は「小国(三河)を二人で持っても仕方あるまい。東三河を清康が支配するか、西三河をわしが支配するかじゃ」というようなことを云ったとある。信成はこの戦いを三河の支配を賭けたものと位置付けたのである。

 吉田城に迫った松平勢は下地に布陣した。下地は豊川を挟んだ吉田城の対岸一帯をいう。

 吉田城の信成は兄弟の伝次成高、小伝次成国、新三成村をはじめとする一族を結集、船で豊川を渡り、下地の川原に上陸して布陣した。籠城ではなく乾坤一擲の勝負に出たのである。しかも船を流して自らの退路を断ち、背水の陣をとったことからもその意気込みが感じられよう。

 両軍は豊川の堤を挟んでの対陣となった。半日ほどは両軍とも念仏を唱えながらの睨み合いが続いたが、やがて松平勢の攻撃で戦いがはじまった。一進一退の激しい戦闘の末、牧野信成ら兄弟と一族家臣七十余人、そして多くの兵が討たれて牧野勢は敗退した。

 対岸の吉田城内では女房らが塀から首を出して戦いの様子を見ていたという。牧野勢の壊滅を見届けた彼女らは田原へ落ちたというが、その後の運命は知る由もない。

 牧野氏を打ち破った清康はその勢いで田原城に迫り、戸田氏を降した。取ったばかりの吉田城に凱旋した清康のもとには菅沼氏や奥平氏などの東三河の諸氏がこぞって服従を申し出てきた。ただ一人、宇利城の熊谷備中守のみが従わなかったという。後日、宇利城攻めとなり、熊谷氏は滅ぼされることになる。

 こうして三河一円清康の支配するところとなったのであるが、天文四年(1535)十二月に家臣に殺されてしまった。「守山崩れ」と云われるもので、三河の地は再び戦乱の巷と化してしまうのである。

 早速、兵を三河に進めたのは今川氏であった。今川氏は一時的に吉田城を確保したが、この翌年には戸田宣成が今川方を退けて城主に返り咲いている。そしてその翌年には再び今川勢の攻撃によって今川のものとなり、さらにまた戸田宣成が奪回するというように戸田氏と今川氏による争奪戦が続いた。

 天文十五年(1546)、駿河・遠江の支配を完成させた今川義元が三河攻略に本腰を入れるべく吉田城を攻撃してきた。軍師太源崇孚雪斎の率いた今川勢による激しい城攻めによって戸田氏は追われ、吉田城には今川家臣大原資良(小原鎮実)が城代として入った。

 翌天文十六年、戸田氏が駿府へ人質として送られようとしていた松平広忠の子竹千代を強奪して尾張の織田信秀のもとへ渡すという事件が起きた。これに怒った今川義元は田原城を攻め落とし、田原城の戸田氏を滅ぼしてしまったのである。吉田城に続く田原城の落城によって東三河は今川の支配となった。

 しかし、戦国の世に平安の二字はない。永禄三年(1560)、桶狭間で今川義元は織田信長に討たれてしまったのである。そして松平元康(徳川家康)が岡崎城に独立すると三河の諸氏はしだいに今川を見限り、松平に鞍替えをはじめたのである。

 永禄六年(1563)に三河一向一揆を鎮定した松平家康(徳川家康)は翌七年六月に吉田城攻めを開始した。吉田城の大原資良の守りは堅く、家康は兵糧攻めで臨んだ。吉田城は今川氏真からの援軍もないまま、孤立無援九ヵ月の籠城の末に和議開城となり、大原以下今川方の退城によって家康のものとなった。

 新城主となったのは吉田城攻略に戦功のあった酒井忠次である。家康は三河一国を二手に分け、西三河は石川家成(数正)が旗頭となり、東三河はここ吉田城の主となった酒井忠次を旗頭としたのである。永禄十一年(1542)からは家康の遠江進攻がはじまるが、吉田城はその発進基地となった。当然、城域も拡張され、より堅固な城に補強されたものと思われる。元亀二年(1571)の武田信玄の攻撃に耐え抜いていることからもその堅固さがうかがえよう。

 忠次は天正十六年(1588)に嫡男家次に家督を譲り、隠居した。城主時代、忠次は豊川の堤防を改修したり、灌漑用水の建設、新田開発など民政にも力を注いだ城主であった。現在の豊橋市の基礎がこの頃にできたといえよう。

 天正十八年(1590)、家康の関東移封によって酒井氏は下総臼井に移った。替わって城主となったのは池田照政で、吉田城は十五万二千石の城となったのである。照政によってさらに城地が拡大され、城下町も整備された。ただ、残念なことに照政による工事は慶長五年(1600)で中断された。関ヶ原合戦の戦功によって照政は姫路五十二万石の大名となって吉田城を出たからである。

 その後、吉田城には五万石前後の譜代大名が頻繁に入れ替わった。この間、宝永二年(1705)から7年間、牧野成春と成央が二代にわたって藩主となっている。いうまでもなく牛久保の牧野氏の後裔である。

 吉田城の最後を預かったのは大河内松平氏七万石で寛延二年(1749)から七代続いて明治を迎えた。

▲ 本丸南側の虎口である南御多門跡。左側の石垣上は千貫櫓跡である。
 ▲ 本丸の裏御門跡。本丸東側の虎口である。
▲ 本丸と鉄櫓。現在は公園広場となっている。

▲ 本丸の井戸跡。石碑が建つのみである。
 ▲ 本丸南西の千貫櫓跡に建てられた城址碑。
▲ 本丸北御門跡。

▲ 本丸北側の豊川にせり出すようにして建てられていた川手櫓跡。
 ▲ 豊川岸から見上げた鉄櫓。まるで天守閣のようである。
▲ 本丸北東の入道櫓跡の外側の石垣。角をなくした形になっているため、鬼門除けではないかといわれている。

▲ 本丸から見た下地地区。享禄二年(1529)、牧野一族は眼前の豊川を渡り、松平清康の軍と合戦、死闘の末に壊滅した。

▲ 本丸の東隣の金柑丸。牧野古白による創築の場所と推定されている。

▲ 本丸と金柑丸の間に残る堀跡。

▲ 本丸の南側、二の丸との間の堀跡。

----備考----
画像の撮影時期*2007/8、2007/12
及び2008/4、2008/9

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