(いっしきじょう)
豊川市牛久保町
▲ 一色城の土塁跡を示す標柱。「一色城保障外壁の跡」と書かれている。
しかし、これが一色城の遺構であるのかは確認されていない。
東三河の下克上
永享十一年(1439)、一色刑部少輔時家が宝飯郡宮島郷長山の里(牛久保町)に来住して城を築いた。これが一色城である。 この前年、一色時家は鎌倉公方足利持氏のもとで伯父一色直兼とともに戦乱の渦中にあった。世に言う永享の乱である。関東管領の上杉勢と戦い、そして幕府軍との戦いに明け暮れていたのである。この乱は鎌倉方の惨敗に終わり、足利持氏以下主だった家臣は討死または自害して果てた。伯父の一色直兼も討死した。 こうした状況下で時家は鎌倉を逃れて三河に落ち延びた。三河の守護は同族の一色義貫で、身を隠すには都合が良かったのであろう。時家は西条城(後の西尾城/西尾市)の吉良俊氏のもとに仮寓したという。 その時家が一色氏の所領内に城館を構え、周辺の土豪らを配下に組み込みつつ勢力を拡大していったのである。牧野氏や波多野氏などがこの時期に時家の家臣になっている。 文明九年(1477)、一色時家の重臣となっていた波多野全慶が挙兵、灰塚野(一色城の東方近くで場所は明確でない。別説もある)に時家を討ち、一色城主となった。全慶はもと細川氏の家臣で、時家を滅ぼす機会を狙っていたという。 しかし全慶の支配は長続きしなかった。 明応二年(1493)十二月、瀬木城主牧野成時(古白)が灰塚野で波多野全慶と戦い、そして討取ったのである。灰塚野は全慶が時家を滅ぼしたのと同じ場所であった。 牧野成時は瀬木城を次男の新次郎成勝に譲り、自らは一色城に入った。成時は一色氏の遺領を受け継ぐと同時に勢力を拡大、永正二年(1505)には今橋城(後の吉田城/豊橋市)を築いて東三河を代表する国人に成長した。 翌年、今川氏との争いで成時は討死するが、一色城はその後も牧野氏の居城として存在し続けた。 享禄二年(1529)、一色城主の成勝は吉田城主に返り咲いた牧野信成の命を受けて牛久保城を築いた。一色城の南西、至近の場所である。 その後、一色城は牛久保城下の武家屋敷群のひとつに過ぎなくなったのか、よく分からない。「新編豊川市史」には永禄十三年(1570)廃城となったと言われている、とある。 現在、一色城の遺構として明確なものは残っておらず、大聖寺西北角に見られるものが土塁の一部であると云われている。 |
▲ 大聖寺境内。「今川義元公御廟所」と看板が掲げられている。永禄六年(1563)、牛久保城に陣した今川氏真がここで義元の三回忌の法要を営んでいる。 | ▲ 大聖寺の一色刑部時家の墓。大聖寺は一色城の郭内に建てられ、牧野成勝が城主となった折に牛窪城と城名を改めたと説明板にある。 |
▲ 大聖寺にある今川義元の胴塚。永禄三年(1560)、桶狭間合戦で討死して首を取られた義元の胴を家臣が背負って逃れ、ここに葬った。塚の背後が土塁の遺構であると「新編豊川市史」にある。 |
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画像の撮影時期*2007/09及び2008/04 |