瀬木城
(せぎじょう)

豊川市瀬木町


▲ 瀬木城跡の遠景。田圃の向こうの森が城址である。

牧野古白、
     飛翔の城

 瀬木城は牧野成時(後に入道して古白と号す)が豊川右岸地域に勢力を拡大してゆく過程で築いた城である。時期は明応二年(1493)とされている。牧野城の南西1.4`、豊川によって結ばれていた。古図を見ると城のすぐ東側が豊川の本流となっている。

 牧野城が方形の掻揚(かきあげ)城で中世武家屋敷の形態であったのに対して、瀬木城は主郭の虎口部に曲輪を設けるなどして近世的城郭の形態へと一歩進化したものとなっている。戦国戦乱の時代というものが地方豪族の居館を城郭化させたのだといえよう。牧野成時が瀬木城をこうしたかたちに仕上げたのも、この先予想される激しい戦乱に備えてのことであったろう。

 瀬木城が完成した明応二年、成時は一族郎党を結集して戦闘準備を完了した。戦う相手はここから西に1.6`の一色城に居る波多野全慶である。

 全慶は主人であった一色氏を討ち滅ぼしてその所領を乗っ取った謀反人であったのだ。成時も一色氏の家臣であったから、戦いの趣旨は旧主の仇を討つことであり、大義は成時側にあった。

 両軍は灰塚野で激突、戦いは牧野勢の勝利に終った。

 戦いのあったといわれる灰塚野の位置は諸説あって確定されていないのであるが、瀬木城と一色城の間にあったのではないだろうか。
波多野全慶を討ち滅ぼした成時は旧主の居城であった一色城に入り、一色氏の遺領を受け継いだ。

 この後、成時は勢力を拡大し続け、今橋城(後の吉田城/豊橋市)を築いて東三河を代表する国人となってゆくのである。まさに瀬木城は牧野氏を東三河に飛翔させた城なのであった。

 成時が一色城に移ったことにより瀬木城は成時の次男新次郎成勝が城主となった。永正二年(1505)、成勝は一色城主となったため、その後の瀬木城の経緯は不明である。

▲ 現在、城址本丸跡は神明社の境内地となっている。周囲には土塁の遺構が残り、その外側には堀跡が残っている。
 ▲ 瀬木城跡を示す案内板。
▲ 本丸西側に残る堀跡。

▲ 城址説明板。絵図を見ると城のすぐ横を豊川が流れている。

----備考----
画像の撮影時期*2008/09

 トップページへ三河国史跡一覧へ