■ 城跡・史跡めぐり探訪記 2011

管理人ヨシ坊が訪ねた城跡・史跡の探訪記録です。

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12月18日(日)晴/堀之内城山若身城山(浜松市天竜区春野町)

 最近、発掘調査が行われ、静岡県の山城の一つに加えられたのが堀之内城山である。

 8時半、春野ふれあい公園駐車場に車を乗り入れ、登山準備に取りかかる。気温0℃、冷気が心地よい。ネットで仕入れたパンフと地図をポケットにねじ込んで登城開始だ。

 町内を抜けて気田川を渡ると若身地区である。国道から右へ入ると「堀之内城山コース」の案内板が立っている。後はこの案内板に従って急斜面に設けられたつづら折れの山道を喘ぎながら登る。20分ほどで林道へ達する。ここからはなだらかな道に変わる。道の左側に苔むした大日如来の像が安置されている。さらに20分ほど進むと城山入口の案内板が立っている。ここから5分ほどで眼前に山城の姿が現れる。

 城山はかつては樹木が密生していたようだが、今では適度に伐採されて山城の全体を見渡すことができる。山城好きにはたまらない光景だ。尾根伝いに堀切で区切られた4つの小さな曲輪が並び、二の曲輪へ至る。そして本曲輪である。本曲輪南端には土塁跡が残っている。本曲輪西側下には腰曲輪が設けられている。つまり、犬居城に面する側に腰曲輪があるのだ。

 天正四年(1576)、徳川家康が犬居城攻めに際して築いた付城との見方が有力である。私にとってはいつまでいても飽きない城跡のひとつになった。

 後ろ髪を引かれる思いで堀之内城山を後にして、来た道を再び引き返す。大日如来像の辻でそのまま林道を進むと若身城山に至る。

 この城山は犬居城城主天野氏の築いた物見台又は烽火台であったのではないかと言われている。城山には現在NHKの電波施設が建てられており、遺構らしきものは明確ではない。おそらく電波塔の建っている最高所が主郭跡かなと感じられるくらいである。

 再び大日如来像の辻まで戻り、急斜面のつづら折れの山路を降りる。国道の北側に瑞雲院があり、犬居城主天野氏の墓地がここにある。初代経顕以来天野一党の墓碑十六基が祀られているのだ。せめて一礼しておこうと寺に立寄ってから駐車場に戻った。

↑堀之内城山 尾根伝いに小さな曲輪が連なっている

↑堀之内城山 本曲輪

↑若身城山

↑瑞雲院 山門
12月4日(日)晴/今城(浜松市北区)、光明城(浜松市天竜区)
 今日はSさんとの約束で光明城へ出かける日である。あまりの天気のよさに約束の時間前に今城へ寄ってみた。

 今城(いまじろ)は細江町と引佐町の境にあり、井伊谷川が蛇行してできた半島状の丘城である。城史の詳細は分らないが、城館資料によれば井伊氏の本城である井伊谷城の斥候城として築かれたとある。つまり、本城の前進基地であり、物見の砦であったのだろう。

 南北朝時代、井伊氏は宗良親王を迎えており、遠江南党の旗頭であった。本城である井伊谷城と峻険な三嶽城に立て籠もって北朝足利勢と戦ったことは周知のことである。この井伊谷の地の南西入口に今城は位置している。三河から本坂越えで遠江に侵入する北朝軍が浜名湖北岸を進んで気賀から井伊谷を目指すとするとこの今城の物見によっていち早く発見されることになる。とくに今城の東隣の稲荷山からは気賀の浜名湖岸が手に取るように見渡せる。

 そうした城跡なのであるが、現状はミカン園となって遺構は消滅してしまっている。農作業中の方に話をうかがい、許可を得てミカン園の中を散策してみた。以前は空堀や土塁、物見台跡といったものがあったということである。かつて土塁があったという東側法面を見ると、なるほどと城跡の雰囲気を感じさせるものがあった。

 さて、時間だ。Sさんを誘って光明城へと向かった。光明城は旧天竜市街の北東約7kmの光明山山頂付近にある。城跡は光明寺遺跡として有名な所で、山岳寺院として隆盛を極めたものと思われ、石垣などが残されている。

 城が先か、寺院が先か気になるところであるが、光明寺の開創は養老元年(717)というからかなり古くから山岳霊場として存在していたことになる。その後、戦国期になり、今川氏が寺院を接収して城砦化、武田氏、徳川氏と城の持ち主が変わった。そして天下泰平となり、城も廃城となると再び光明寺が当地に戻り発展したということである。したがって現在目にする石垣は江戸期の寺院遺構ということになる。

 とはいえ、本堂跡はかつての主郭跡にあたり、東側尾根伝いに中曲輪が残り、さらにその先には堀切跡も見ることができる。

 昨日の雨と強風の後であるから今日は空気が澄んで主郭跡からの展望は素晴らしかった。青い空と蛇行する天竜川とその先の遠州灘が鮮やかであった。
 そしてSさん、ご苦労様でした。

↑今城 三方が川となっている要害である

↑今城 かつて土塁のあった法面

↑光明城の堀切

↑光明城から遠州灘を望む
11月13日(日)晴/和田ヶ島砦蜷原砦笹岡古城(浜松市天竜区)
 二俣城奪還のために徳川家康が築いた付城の訪城に出かけた。
 今日は季節外れの暖かさである。

 まずは和田ヶ島砦から攻略だ。場所は天竜川西岸、二俣城というより徳川方の付城である鳥羽山城の対岸にあたる。私有地のためか案内板や説明板などはないが、県道9号から阿多古川を渡ってすぐの所である。
 路駐して砦跡への路地を行くとすぐ右手に堀切が現れる。場数を踏んだ城好きならばすぐにそれと分るはずだ。申し訳程度に砦跡を示す標柱が立てられていた。堀切の向こう(南側)には細長い曲輪とそれに付随する帯曲輪(鉄塔が立っている)が続いている。細長い曲輪の先は本曲輪である。しかし、本曲輪跡はビニールハウスや畑地となっていて無断の立ち入りは遠慮しなければならない。かなり改変されているものと思われる。
 この砦に布陣したのは徳川四天王のひとり榊原康政であった。

 蜷原砦は二俣城の北側にあり、付城群のうち唯一地続きの砦である。布陣したのは大久保忠佐であったようだ。兄の忠世は鳥羽山城に陣取り攻城軍の指揮を執っていたから兄弟で二俣城を南北から挟んでいたことになる。
 残念ながらこの砦跡は宅地化されて当時の遺構を見ることはできないようだ。城館資料には北曲輪の一角に土塁状の起伏と天竜川に面した段状遺構が残っているとある。車を二俣城入口の駐車場に置いて砦跡の方へ(北)向かった。地形としては天竜川に面した河岸丘陵となっており、二俣城と砦の境目と思われる所は最も狭い尾根状の地形となっている。丘陵上は宅地化されて多くの住宅が建ち並んでいる。そのまま北側へ抜けると丘陵を降りて市街地に出てしまうが、その丘陵地の北端が最も高所となっており、資料の北曲輪と呼ばれる所であろう。天竜川に面する部分は断崖絶壁状となっていた。段状地形も部分的に見られたが遺構なのかは分らない。
 再び車に戻り、天竜区役所へ向かった。

 区役所はかつての古城跡に建っているのだ。この城は笹岡古城または二俣古城と呼ばれている。二俣城が戦国期の城として機能する以前、この地域を支配した領主の居館城であったとされている。昭和43年(1968)に天竜市役所(現・区役所)が主郭跡に建てられたことでその遺構の大部分が破壊されてしまったようだ。区役所入口に城跡を示す石碑が置かれているのみである。
 実はこの城はすでにアップ済みなのであるが、今日は主郭背後の本城山が気になって再び訪れてみたのである。つまりこの山は詰城として利用されたもので階段状の遺構が残るとされているのだ。

 しかしながら雑木と藪に覆われた山である。登山道も見当たらず、直登も無理な状況であった。山裾(西側)に沿って路が伸びていたのでとりあえず歩いた。すると遊歩道入口の表示が立っていた。ちょうど本城山の北端鞍部にあたる場所だ。遊歩道は残念ながらここから北へと向かっていた。本城山へは続いていなかったのである。それでも、と思って遊歩道の反対側へ踏み込んでみた。すると見上げるほどの断崖が現れた。無論、これ以上は進めない。城館資料には「本城山の背後を切断整形して」とある。これがそうなのか。

 とりあえず、納得して帰途についた。

↑和田ヶ島砦の堀切

↑和田ヶ島砦の標柱

↑二俣城址から蜷原砦跡へ続く道

↑笹岡古城の碑

↑本城山背後の切断切岸
10月16日(日)晴/左京殿城五本松城堂山城(豊橋市)
 昨日の雨も上がり、今日は上天気である。

 今日も西郷氏関連の訪城に出かけた。

 最初に左京殿城に寄る。前回、登城口に迷って撤退した城である。「城郭写真記録」成田三河守さんのアドバイスで今回は迷うことなく登城できた。城山の西側から踏み入るとすぐに堀跡、そこから上に向かって直登するとまた堀跡がある。そして土橋を進むと主郭である。土壇上には小さな祠が置かれていた。戦国期の大永の頃(1521-28)、この城には崇山の土豪小枝左京進が居たといわれる。それが西郷氏によって追われ、土地を捨て去ったと伝えられている。左京殿城の名の由来はこの土豪の名からきているのだろう。その後の歴史については分からないが、西郷氏が支城の一つとして修築、戦国期を通じて維持されていたのではないだろうか。小城であるが、その遺構の残存具合の良さは驚くほどである。このままそっとしておきたい。そんなことを思いながら城を後にした。

 西郷氏は月ケ谷城から本拠を中山地区に移し、五本松城を築いた。以前も五本松城跡には寄っているのだが、今日は五本松城近くの菩提寺を訪ねた。この寺(無人)の裏手に西郷氏一族の墓があるというこなのである。その写真の載っている本をポケットにねじ込み、寺の裏手へと向かったがそれらしいものは無い。寺の西隣が柿畑で、農作業されているご婦人に聞いてみようと声かけてみた。「たしかこの上のほうですよ。行ってみましょう」と快く案内してくれた。畑の間の細いあぜ道を数十メートルほど登ったところである。途中、「あっ、まむし」と言いつつも平然と登って行くのには驚いた。趣味とはいえ城めぐり、史跡めぐりにはこんな危険もひそんでいる。ところで西郷氏の墓であるが、見当たらないのである。「10年ほど前にはここにあったんですけどね。去年の台風で倒されてかたずけられたのかもしれませんね」と言いながら草をかき分けると小さな石塔が出てきた。写真の墓塔群のひとつである。写真ではこの他に4つほど並んでいるのだが、どうもなさそうである。400年以上ここにあったものが現代になって無くなっているとは、寂しいかぎりである。

 気を取り直して五本松城跡へ向かった。城跡といっても何もない。城跡のあったことを示す標柱が立っているだけである。この東側の山上にも城の遺構があると言われている。資料では五本松城Bとされているものだ。いわゆる詰城として築かれたものなのであろう。

 ここから中山地区の北側へと向かう。山裾に鳥居がある。医神社という。医は「くすし」と読む。この神社の裏手山腹に堂山城があったといわれている。社殿から100mほど登ると東側に平坦地がある。かつて太陽寺という寺の廃された跡と伝えられており、西郷氏が五本松城の築城とともにこの廃寺跡も利用して何らかの施設を設けたものと思われる。

 これで今年春から続いた西郷氏関連の訪城も一区切ついたことになる。

↑左京殿城

↑左京殿城 主郭

↑西郷氏の墓

↑医神社

↑堂山城
10月2日(日)晴時々曇り/月ケ谷城市場城(豊橋市崇山)
 残暑も過ぎ、風が秋の空気を運んでさわやかな日である。
 西郷氏関連4回目の訪城で今日は豊橋市崇山の月ケ谷城と市場城を訪ねた。
 車を西郷氏の菩提寺である正宗寺の駐車場に置き、徒歩で月ケ谷城を目指した。正宗寺は月ケ谷城の東麓にあるのだが登山口は反対側の西麓にある。城山の南縁をぐるりと迂回しなければならない。市場城はその途中にある。

 市場城は月ケ谷城が築かれている城山の南麓にあり、現在は長さ25mほどの土塁の一部が畑のなかに残るだけである。竹藪に覆われており、肝心の土塁を直に把握できないのが残念だ。周囲は農地となっており、この城がどのような城であったのか、今となっては想像することもできない。資料によれば永禄四年(1561)七月に吉田城主小原鎮実の今川勢が崇山市場口を攻めたとある。今川を見限って松平元康(徳川家康)に属した西郷氏を今川方が攻めたのである。おそらく西郷氏の一族か家臣がここに城館を構えていたのであろう。

 市場城から月ケ谷城の西麓へと向かう。細流に沿って北上すると月ケ谷城址入口の案内柱が立っていた。ここからは山路である。路とはいっても整備されているわけではないので案内柱を見落とさずに登らなければならない。しかも訪れる人もほとんどないようで、路はきわめて薄い。それに加えて先月の台風のためか倒木が多く、行く手を塞いでいる所もあり、危険ではあるが山肌を迂回するなどしてようやく城址主郭跡に辿り着くことができた。
 月ケ谷城は西郷氏が大永三年(1523)にここ崇山の地を押領した時にその居城として築いたとされている。永禄四年(1561)に当主西郷正勝が五本松城を築いて移ってからも嫡男元正が月ケ谷城を居城としていた。いわば、月ケ谷城は西郷氏累代の居城であったといえる。

 登山口から往復約1時間の山歩きであった。今日はもう一ヵ所、左京殿城へ登る予定であったが、なんとも入口がわからず、引き返してしまった。

↑市場城の土塁跡

↑月ケ谷城 中央の山頂

↑月ケ谷城主郭
9月15日(木)晴/毘沙門堂砦鳥羽山城(浜松市天竜区)
 好天と休日が重なれば、当然出かけるべきだろう。
 今日は遠江の要の城と言われた二俣城を攻略するために徳川家康によって築かれた陣城のひとつ、毘沙門堂砦に向かった。猛将、本多忠勝が布陣した砦である。

 毘沙門堂砦は二俣城の西約700mに位置しており、二俣川東岸にある栄林寺の裏山にかつての砦跡が残っている。砦跡のある西側斜面は栄林寺の墓地となっており、その墓地を抜けてから尾根をめざして直登することになる。路は設けられていないので足元には注意したほうがいい。へたをすれば墓地に転がり落ちることになる。

 尾根までの距離は大したことはない。尾根に近い墓石から10mほどで腰曲輪跡に出る。さらに4〜5mほどで尾根に至る。そこが主曲輪となっており左(北東)に行くと土塁、虎口、堀切の遺構を目にすることができる。主曲輪南端には電波塔が建てられていた。

 名の由来となっている毘沙門堂は現在、山下に移されているが、かつては山上にあったと言われている。なお、登城に際しては麓の住人の方にご教示いただきました。改めて御礼申し上げます。

 帰路、再訪になるが鳥羽山城に寄った。ここも二俣城攻略の徳川方の陣城となった城跡なのである。

 ほぼ7年ぶりの訪城ということで昨夜自分のページを見て愕然としてしまった。写真1枚で片付けられていたからである。なんともおそまつなものである。石垣や堀切などの写真を追加しようと立寄ったしだいである。

↑栄林寺と砦跡のある山

↑毘沙門堂砦の堀切跡

↑鳥羽山城主郭
8月17日(水)晴/小谷城(滋賀県長浜市)
 恒例の夏の家族旅行。今回は娘二人と妻、私の4人である。女子衆の強いリクエストにより、今年も北陸へと旅立つこととなった。

 問題は旅のコースのどこで訪城の機会を設けるか、である。歴史なんぞには無関心な女子衆に退屈させずに感動と思い出を残す、となると訪城先の選定にも苦慮する。そこで思い至ったのが小谷城である。 今年は大河ドラマ「江」に関連して長浜市内では各種のイベントが行われているようだ。小谷城下には「江のふるさと館」なるものが新設され、シャトルバスが城跡へ出ている。そして城跡ではボランティアの「語り部」さんが説明をしながら各曲輪を案内してくれるのだ。私の説明なんぞより、はるかに説得力があるに違いない。ということで、北陸へ向かう途中に小谷城へ寄ることとなった。

 小谷城はいうまでもなく浅井氏の居城であり、織田信長の姉お市の方が政略結婚によって嫁いだ先である。浅井長政とお市の間に生まれた三姉妹こと茶々、初、江の物語は戦国時代を語る際には欠くことのできないものである。

 北陸道長浜ICから小谷城下のイベント会場に直行、そこからシャトル(マイクロバス)で城跡へ向かった。今年はマイカー乗り入れは禁止となっている。乗車定員いっぱいの20数人がひとグループとなって「語り部」さんの案内で行動するのである。シャトルは城址の番所跡手前までで、そこからは徒歩となる。番所跡から御茶屋跡、御馬屋跡、桜馬場跡そして大広間跡から本丸跡へと向かった。約1時間ほどかけての山城歩きである。夏の山城歩きであるから、皆汗だくである。
 ところでわが家の女子衆は、というと常に最後尾を歩きながら黄色い声をあげている。足元を見るとヒールの高いサンダルだ。危ない、危ない。他の人はマネしないでください。でも、楽しそうだったので私も一安心だ。
 案内は本丸までである。城跡はこの先に京極丸、山王丸と見どころが続いているのだが、仕方がない。いつの日か山麓から歩いて登城したいものである。

↑「小谷・江のふるさと館」

↑黒金御門跡の石段を行くわが女子衆

↑本丸北側の大堀切
8月12日(金)晴/岐阜城加納城革手城鷺山城(岐阜市)
 今日から夏休みだ。早朝5時発。市街はまだ寝静まっているが、例のごとく高速は別世界である。にぎやかなものである。案の定、岡崎付近で渋滞だ。目的地は岐阜であるが、通常より1時間ほど余計にかかってしまった。
 今日の予定は岐阜城とその近辺の革手城、加納城、鷺山城の4ヵ所である。東海北陸道の岐阜各務原ICから岐阜市内へと進む。まずは、路駐となる革手城から訪城開始だ。交通量の少ない朝なら路駐も気楽にできるからだ。

 革手城は文和二年(1353)に美濃、尾張、伊勢3国の守護となった土岐頼康によって築かれたとされている。1辺約200mほどの方形居館城であったといわれ、都風の御殿造りであったともいわれる。3国を束ねる守護所としての革手城であったのだ。
 それほどの城であったにもかかわらず、明応三年(1494)の船田合戦で灰燼した後は打ち捨てられた。現在は市街地となり、学校が建つなどして跡形もない。ただ、城跡の北辺とされる場所に石碑が建つのみである。石碑は高校の校舎に挟まれた道沿いに設けられた小公園の中に建っていた。

 次に向かった先は道三塚である。革手城から7kmほど北になる。長良川を越えてすぐのころだ。
 弘治二年(1556)、美濃の蝮と異名をとる斎藤道三は子の義龍と長良川を隔てて戦った。隠退に追い込まれていた道三勢は多勢の義龍勢に敗れ、道三も討死してしまった。現在の塚は天保八年(1837)に移築されたものだそうだ。周囲は宅地化されて往時を偲ぶ何物もないが、塚は今でも大切にされているようで、塚の前には香華が手向けられていた。

 再び長良川を渡って岐阜公園駐車場に車を入れる。今日のメイン、岐阜城への登城だ。すでに外気は35度を超えている。今日も猛暑日だ。しかし、訪城でながす汗は苦にならないから不思議だ。
 岐阜城は比高300m以上の急峻な金華山山頂にある。山麓から徒歩で攻めるのが常道とは思うが、体力と時間を考えてロープウェイ利用にした。それでも山頂駅から天守までそれなりの山道が続いている。まず「天下第一の門」と呼ばれる一の門、そして堀切跡を左手に見ながら二の丸へと登りのルートを進む。そして台所跡、模擬天守に至る。各曲輪の広さはさほどでもないが崩れかけた石垣が随所に見られ、城ファンを魅了させている。
 岐阜城は織田信長が天下布武の拠点として整備されたが、それまでは稲葉山城と呼ばれていた。ここに城が築かれたのは古く、鎌倉時代に遡りそうなのだが、本格的な山城となったのは、やはり戦国期に入ってからのことであろう。国盗りの梟雄斎藤道三の手によって城塞化されたものであろう。信長の後、城主は何度も変わるが、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦の前哨戦で落城してからは廃城となってしまった。
 ロープウェイで下山して山麓に築かれた信長の居館跡を見学。現在も発掘調査中なのだが、巨石で造られた虎口などは整備されて見学可能となっている。信長居館の全貌が明らかになるのが楽しみである。
 居館跡の近くには岐阜市歴史博物館がある。涼みと休憩と資料購入のために飛び込んだ。気持ちいいっ(^_^)

 次に向かったのは加納城である。最初に寄った革手城の近くなのだが、駐車場があるので後回しにした次第だ。ナビに従って住宅街に入って行くと突然、石垣が目に入る。そう、ここは加納藩十万石の府城跡なのである。最終的には三万石ほどになったとはいえ、明治に至っているのだ。現在では公園となっている本丸跡の石垣が見どころとなっている。
 公園南側の駐車場に車を停めてさっそく訪城開始だ。真夏の炎天下にあって城跡の木陰で涼を取る人たちがいる。
 加納城はもともとは美濃守護代斎藤氏によって築城されたもので、守護所であった革手城の近くにある。天文七年(1538)、斎藤氏の名跡を継いだ道三は稲葉山城にその居城を移したために廃城同然となっていたが、関ヶ原合戦後に徳川家康が大坂方に対処するためにこの城跡に新たに築城した。この家康の城が近世加納城と呼ばれるものである。

 最後に再び長良川を渡って鷺山城へ車を向けた。鷺山城の歴史も鎌倉期に始まるようだが、その詳細は分からない。戦国期、守護土岐頼芸が居城としていた時期があったようだが、道三が隠居してからここを居城としていたということで有名な城跡である。
 登城口は何ヵ所かにあるようだが、今回は城山東麓の北野神社に車を停めての登城とした。神社南側に鷺山公園の碑が建っている。ここからの登城である。階段の両側に石垣の段々が目に入るが、これは公園化の際に造られたものであろう。階段を登りきるとこんどは山路である。所々階段が設けられていて整備はされていて歩きやすい。山頂が主郭跡で、城址碑が建っている。その北側に堀切跡が目に入る。

 時刻は14時頃であるが、夕刻から始まりそうな渋滞を避けるために帰途についた。おかげで渋滞にはまることもなく、順調に帰宅できた。後から渋滞情報を確認すると例の岡崎付近で大渋滞となっていた。

↑革手城(川手城)

↑道三塚

↑岐阜城 模擬天守

↑天守からの眺望

↑信長居館跡の虎口遺構

↑加納城 本丸石垣

↑鷺山城
7月15日(金)晴/五葉城高城砦(新城市、豊橋市)
 西郷氏関連の三回目の訪城で、今日は五葉城とそれに連なる高城砦の攻略に出かけた。

 東三河西郷氏の根拠地である豊橋市中山地区の北側に連なる標高300mから400mほどの山上に両城とも築かれている。行政的には豊橋市と新城市の境にあたる。登城は林道が整備されている新城市側からの登山となる。

 林道は一般車両は通行できないため、片道40分ほどの徒歩行軍である。山城攻略で忘れてならないのは地図とコンパスである。現在地を確認しながら目的地に向かうのであるが、案内板のないところでは行き過ぎてしまうことがある。五葉城の場合も気を付けなければならない。と思いつつもやはり行き過ぎてしまった。歩いている方角がどうもおかしいのである。こうなると地図上の現在地確認が難しくなってくる。そこで役立つのが携帯電話である。GPS搭載であれば難なく現在地が確認できるのである。案の定、五葉城を過ぎて高城砦の直下まで来ていた。ならば、ここから攻めるか、と思ったが登り口が見当たらない。もちろん看板などない。とりあえず五葉城近くに戻ることにした。ここも登り口が分らない。城館資料の縄張図とにらめっこだ。主郭南側に虎口がある。林道を南へ戻るとけもの道らしきものがあった。これかな。蜘蛛の巣を払いながら登り進むと、五葉城の説明板が立っていた。主郭跡である。

 永禄五年(1562)、西郷清員が古要に城を築いたと言われ、それが五葉城であるとも言われている。この前年、野田城主菅沼定盈が今川勢に城を落とされた際に身内でもある西郷氏のもとに退去して高城を築いたとされる。ただ、両城とも至近の位置にあり、ひとつの城との見方もあって、その実態は分からないことが多い。

 これで下山しようかと考えたが、高城砦をなんとか攻略できないものかと再び砦の直下に戻った。自分が立っている林道は最近整備されたものか地図にも資料にものっていない。でも、今見上げている山が砦址であることは間違いないのだ。尾根筋には必ず道があると考え、林道によって削り取られた赤土の壁をよじ登ってみた。あった、あった。うっすらと山上へ向かってけもの道が伸びているのが分かる。頂上は狭いが、平坦な場所となっていた。

 二城攻略成功。着ているポロシャツは汗で濡れたようになっていたが、やり遂げた満足感からか、大変気持ちの良い汗であった。

↑五葉城主郭

↑五葉城から見た高城砦の山

↑高城砦下の林道

↑高城砦主郭
7月8日(金)曇後晴/隠之城(湖西市)
 今月から9月まで節電のために木・金休みとなった。自動車産業の末端に連なる私の勤め先も右へならえである。5月の連休以来久しぶりに訪城の時間がとれたので、近くではあるが、湖西市の隠之城の探索にでかけた。

 隠之城は城館資料では角の城となっている。読みはいずれも「かくのじょう」である。戦国期、この近くの宇津山城主朝比奈氏泰の家族の居館であったのではないかとの伝承がある。また、城主の姫様を匿うために築かれた隠れ城であったとも言われている。もしそうであるならば、「角の城」はやはり「隠之城」と記すべきであろう。永禄十一年(1568)、宇津山城は松平(徳川)勢によって攻略されたが、この際にこの城も滅びたとされている。
 かつては、城址に空堀や土塁がみられたというが、現在は宅地造成されて消滅してしまったようだ。昭和51年(1976)に建てられた石碑のみがかつてここに城の存在したことを伝えるのみである。
 ところが、この石碑を探すのがたいへんであった。どの資料にも石碑の所在を記したものがないからである。しかたがないので造成区画内に設けられた道を徒歩で探し回った。宅地とはいっても実際に建てられた住宅はまばらで、人影もない。しかもほとんどが藪と化しているのだ。30分ほど歩きまわってやっと見つけた。道沿いではあるが藪に隠れるようにして建っていた。まさに「隠之城」である。

↑やっと見つけた石碑

↑城址碑
5月3日(火)曇/諫早城(諫早市)、原城日野江城(南島原市)、島原城(島原市)、鶴亀城(雲仙市)、玖島城(大村市)、鹿島城(鹿島市)
 諫早市内で一泊。朝6時にチェックアウトして直ちに訪城開始。同市内の諫早城へ向かった。あいにくの曇空に加えて黄砂のために撮影日和とは言い難いが、仕方ない。城址東側の高城神社境内に車を止めて登城開始である。

 神社北側の登城路を森の中へと進む。路の右側が城山である。路はやがて右に曲がり、右下に空堀を見ながら主郭下の帯曲輪に至る。さらに石段を上がると主郭(本丸)である。諫早城は西郷氏の居城であったが、天正十五年(1587)に豊臣秀吉に従わなかったために龍造寺家晴によって滅ぼされた。その後、家晴が城主となって諌早氏を称し、二万二千石の諫早藩主となり、二代藩主のときに佐賀藩の支藩に組み込まれた。

 次の目的地は島原の乱の舞台となった原城である。諌早から約1時間半、島原半島の南端近くである。
 車は原城の大手門跡を入り三の丸、二の丸と進み本丸下の駐車場に至る。三の丸、二の丸は農地となっているがかつて城跡であったことを思うと、かなり広大な城郭であったことがうかがわれる。車を降りてまずは本丸を目指す。乱後、原城は破却されたが、その際に石垣も崩されて埋められた。発掘のおかげで破壊され残った石垣を私たちは目にすることができる。特に隅石部分の破壊が痛々しい。本丸には十字架の塔や天草四郎の像など建てられており、あらためて島原の地がキリシタンの地であったことを思わされる。

 もっとも原城はキリシタン大名有馬氏の支城として築かれたものである。有馬氏の本城は原城の北3kmほどのところにある。日野江城という。島原地方のキリシタン文化は天正七年(1579)の有馬晴信の受洗によって最盛期を迎える。日野江城下にはセミナリヨが建設され、ここから4人の少年が遣欧使節として海を渡った。

 原城から車を日野江城へと向けた。日野江城へは国指定の史跡となっているので道路には案内標識が立てられている。道は狭いが本丸近くまで車で行くことができる。駐車スペースは2、3台ほどだ。ここから本丸最高所まで5分とかからない。最高所部分の東西には一段低くなった曲輪が見られるが、これらを含めて本丸とされているようだ。 私はここだけを見て城を後にしてしまったのだが、帰宅後に資料を見ると城址東側にも登城口があって、ここから上ると二の丸跡に立つことができたのだ。そこには発掘された石段や石垣の遺構を目にすることができたのだ。たいへん悔やまれてならない。

 日野江城の次は島原城だ。国道251を島原湾に沿って北上する。今日はあいにくの曇天に加えて黄砂である。晴天であれば、海の向こうには熊本県の山並みが見え、反対の左側には雲仙普賢岳の荒々しい姿が見えるはずであるが、残念ながらこの日は見ることができない。島原城に着くころには小雨がポツリ、ポツリと降ってきた。

 島原城は大阪の陣後、松倉重政が四万三千石を拝領して入封、築城されたものである。五層の天守閣と多くの櫓を持つこの城の威容はどう見ても数十万石規模の大名の居城であろう。この松倉氏による島原統治は重税とキリシタンの徹底的な弾圧というもので、これが島原の乱へと繋がってゆくことになる。それを思うと、晴々とした気持ちでこの城を見ることができないように思う。
 気分を持ち直して城内と堀の周囲を歩いて廻った。さいわい雨は止んでいる。やはり城は堀越しに眺めたほうが恰好がいい。歩きながら眺める城は場所によって様々な表情を見せてくれる。近世城郭を訪ねるたびに感じるのは「武」と「美」の二文字に尽きる。なぜだろう。私の城めぐりの問いのひとつでもある。

 再び国道251を海沿いに進む。島原半島の北海岸に神代(こうじろ)と呼ぶ土地がある。神代とは神様の城との意であるらしい。ここに鶴亀城と呼ぶ城跡がある。なんとも縁起のいい名である。
 鶴亀城は景行天皇の熊襲遠征に従った神代氏によって築かれた城である。神代氏の歴代によって長年月をかけて拡張整備された城といわれる。鎌倉、南北朝期を経て戦国期にはいくつかの支城群を持つ城となっていた。天正十二年(1584)、九州制覇の野望に燃える島津氏と佐賀の勇、竜造寺氏が島原沖田畷に激突、竜造寺隆信はこの戦いで討死してしまう。竜造寺方にいた神代貴茂は鶴亀城に籠城して島津軍に備えた。鶴亀城は島津氏が和議を持ち込むほどの難攻の城であったようだ。神代貴茂は島津方の設けた和議の宴の帰り道に伏兵に襲われて謀殺されてしまう。島津も汚い手を使ったものだ。
 そんなことを考えながら城址に踏み入る。本丸跡は神代神社の境内地となって周辺に土塁の痕跡が見られる程度である。この本丸の北側に二の丸、三の丸、出丸が広がっているようなのだが、畑地、藪となっていて気楽に踏み入れそうもない。それでも二の丸虎口付近には石垣や土塁跡が見られ、それ相応の城であったことが偲ばれる。
 豊臣秀吉の九州平定によって神代の地は鍋島氏の所領に加えられることになり、城の東側に屋敷が構えられた。この一画は武家屋敷の並ぶ伝統的建造物群保存地区に指定されている。国指定の鍋島邸は修理の工事中のために足場とシートに覆われて外観を見ることができなかった。

 神代を出て本日の出発地諌早市に再び入る。そこから北上して大村市に車を向ける。ここには大村氏によって築かれた玖島城(大村城)がある。
 玖島城は海に面している。慶長四年(1599)にこの城を築いた大村氏が朝鮮の役の経験から海辺の城は強いというのでこの場所に築城したといわれる。大手西側の復興隅櫓を見上げながら大手口から城内へと踏み入る。明治になって城は破却されたが石垣はそのままであるようだ。大手虎口の枡形を曲がり進んで本丸へと入る。この城には天守閣は築かれることはなく、館造りの城であった。現在は本丸に大村神社が建てられている。ここから裏側(北)へ出て三の丸跡へと進む。そこから城山を下ると海辺に出る。ここにはめずらしい船蔵の跡が見られる。藩船の格納場所ということだ。石組の桟橋が櫛のように並んでいる。

 玖島城から佐賀方面へと車を走らせる。今夜の宿は佐賀市なのだ。長崎県から佐賀県に入ると鹿島市がある。ここに佐賀藩の支藩鹿島藩二万石(鍋島氏)の城がある。本日最後の訪城地だ。
 鹿島城が現在地に築かれたのは文化三年(1806)、九代藩主のときであるから城としての歴史は浅い。この城も天守閣はなく、本丸には屋敷や蔵が複雑に並んで建てられていたようだ。現在は鹿島高校の敷地となっている。城の東側一帯は旭ヶ丘公園となって市民散策の場となっている。公園に残る石垣と堀がかつて城であったことを物語っていた。佐賀の乱の際に本丸の建物は焼失し、わずかに焼け残った城門が鹿島高校の校門として残されていた。赤く塗られて「赤門」と呼ばれている。かつての本丸の正門だという。

 鹿島から1時間ほどで佐賀の宿(BH)にチェックイン。明日は朝一で佐賀城に乗り込み、帰途に就く予定である。
 ところが、今日の高速道路の渋滞は半端なものではなかったようだ。TVのニュースでは明日も同じような渋滞が予想されるというではないか。佐賀城に寄ってから帰るとなると翌朝まで走り続けることになりそうだ。これでは体が持たない。佐賀城はまたの日にということで、早起き6時発で高速に乗ることにした。

↑諫早城 主郭

↑原城 二の丸から本丸を望見

↑原城 櫓台

↑原城 天草四郎の像

↑日野江城

↑島原城 隅櫓と天守閣

↑島原城 本丸北側石垣と堀

↑鶴亀城

↑玖島城

↑鹿島城
5月2日(月)晴/石田城(五島市)、深堀陣屋(長崎市)
 昨日、午前中に浜松発。九州長崎へと車を走らせた。2年ぶりの九州訪城の旅である。今回は長崎県内を主として訪ねる計画である。
 長崎道のPAで車中泊。今朝一番で長崎港へ到着。高速船で五島列島の福江港へ向かった。

 福江には五島氏の居城であった石田城(福江城)がある。この城は黒船に備えて幕末に築城が許可された数少ない城跡なのだ。福江港に到着すると常塔鼻と呼ばれる石垣が港内に見える。石田城築城に際し風浪を防ぐために築かれたものである。城跡までは港から徒歩10分もかからない距離である。城址北東側の枡形虎口から城内に入ると二の丸で、五島観光歴史資料館がある。本丸は五島高校の敷地となっているので内堀の外から眺めるだけであるが、石垣は当時のままであろう。一旦城外へ出て北西側に廻ると搦手口である蹴出門と石橋が目に入る。石田城の顔として紹介される場所でもある。ここから再び城内に入ると国指定名勝となっている五島氏庭園がある。
 城址を一周し終えて再び港へ戻り、一服。五島は自然と歴史に恵まれた島である。いつの日かのんびりと訪れたい所だと思う。

 昼近くの高速船で長崎へと返す。まさに、とんぼ返りである。
 長崎と言えば、と聞くと様々な言葉が返ってくるであろうが、私は坂本龍馬と亀山社中の言葉が最初に浮かぶ。そんなわけで訪城目的から外れて風頭公園の龍馬像と亀山社中の跡を訪ねた。
 しばし幕末の風情を味わった後、車を南へと向けた。長崎半島の中程の深堀町に陣屋跡がある。

 深堀の陣屋跡には石碑が建つのみであるが、それと武家屋敷の残る地として知られる。陣屋の主は佐賀藩家老深堀鍋島氏である。元の姓は三浦氏で鎌倉期に上総国深堀から地頭としてこの地にやってきて深堀氏を称した。後に鍋島氏の重臣となって鍋島姓を名乗り深堀六千石の主となった。元禄十三年(1700)に起きた深堀義士の討入り事件は翌々年の赤穂浪士の吉良邸討入りの際に参考とされたと伝えられている。陣屋跡南側の菩提寺には討入り義士の墓が並んでいた。

↑石田城 蹴出門

↑風頭公園の龍馬の像

↑深堀の武家屋敷
4月17日(日)晴/西川城(豊橋市)
 西郷氏関連の訪城として西川城跡へぶらりと出かけた。
 西川城址はカタクリ山としても知られ、3月頃にはカタクリの花見に多くの人が訪れる所でもある。幸いというか、今日は開花の時期を終えて人っ子一人おらず、気兼ねなく遺構を見て回ることができた。
 城址への入り口は南側と北西側の二ヵ所にある。最初は南側の大福寺裏から入った方が良いかもしれない。寺の裏の坂道を登るとすぐに土塁が目に入り、曲輪への虎口へと道が続いている。これだけでも来た甲斐があったといものだ。曲輪内を土塁に沿って西へ移動すると櫓台跡と思われる部分も見受けられる。さらに西側には台地先端部に小さな曲輪があり、堀切で区切られている。その堀切跡から北側斜面に沿って散策路が設けられて北西部の入り口へと降りている。
 西川城は西郷清員の築城と伝えられている。時期は天文年間(1532-55)とある。清員は嫡流の五本松西郷家の支流であったが、戦国争乱の中で相次いで本家当主が討死するという家系存亡の時期を乗り切った人である。永禄三年(1560)徳川家康が三河に自立して後、一貫して家康に従い、嫡男家員とともに各地の戦場を馳駆した。元亀二年(1571)、本家義勝の討死を機に清員は隠居して家員に本家を継がせた。
 いつ頃まで西川城が維持されたか分らないが、天正十八年(1590)の家康関東移封により家員も下総小弓に移り、廃城となったと言われている。また、清員の姪お愛は家康の側室となって二代将軍秀忠の生母となり、西郷局と呼ばれた。

↑城址本曲輪南側の虎口

↑本曲輪西側の堀切
3月19日(土)晴/萩平山城五本松城(豊橋市)
 さる11日の東北方面の大地震及び津波によって被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。私の住む静岡県は東海沖地震が将来必ず起きるとされる地域であり、今回の大地震は他人ごとではなかった。県内には原発も抱えているのでなおさらである。
 ところで、今日は出掛けようか、自粛すべきか迷ったのだが、結局出掛けることにした。何事にも前を向いて進むべきだと考えたからである。それでもガソリンを節約しようと、近場の訪城とした。
 訪城先は豊橋市北部の西郷地区である。戦国期、西郷氏が根拠地としたところである。石巻中山町を中心とする地域で、周囲が山に囲まれた地域である。ここには多くの城館が築かれ、戦国時代を生き抜いた西郷氏の歴史が刻まれている。
 その多くの城館群のうち、今日は萩平山城と五本松城を訪ねることにした。
 萩平山城は西郷地区(石巻中山町)に至る西側の入り口に位置する山城である。郷内を防衛する際には重要な役割を果たしたに違いない。比高は80mほどであろうか、頂上への登坂は意外ときつい。体力のなさを山城に上る度に感じる。息を整えながら約15分ほどで頂上に辿り着いた。頂上には秋葉神社が建っている。城館資料ではここが主郭となる。主郭の北側には曲輪Uがあり、その間に堀があることになっているのだが、少し窪んだ程度になっていた。さらに主郭の南と西側には3mほど下がった所に帯曲輪の跡がみられた。
 五本松城は城館資料によれば二ヵ所に存在する。つまり、郷内の平地部のものと山上のものである。ようするに居館と詰の城ということなのだろう。今回は平地部の五本松城を訪ねた。
 五本松城址には遺構はなく、電柱脇に市の立てた史跡標柱があるだけである。永禄四年(1561)、ときの当主西郷正勝は今川氏を見限って松平元康(徳川家康)に従った。そこで元康の意を受けて今川方軍勢の襲来に備えて築かれたとされている。予測通り、五本松城は今川勢の攻撃を受けることになるが、奮戦の甲斐なく正勝以下討死して落城してしまった。
 五本松城址から周囲を見回せば6か所ほどの西郷氏関連の山城跡や砦跡が存在する。近いうちに、少しづつ訪城を進めようと思う。

↑萩平山城

↑萩平山城 主郭跡の秋葉神社

↑五本松城(館)
3月6日(日)晴/加賀爪氏館(袋井市)
 郷土資料閲覧のために袋井市図書館に出かけた。

 その帰路、同市内の加賀爪氏館跡に立寄ることにした。
 しかしながら館跡とされる地域は宅地化して往時をしのぶ遺構はおろか、その痕跡すら残されていない。館跡北側に隣接するといわれる栄泉寺は加賀爪氏の菩提寺とされているから、その南側一帯に館があったことになる。

 加賀爪氏は初代政定が今川範政の猶子となったことに始まる。出自は八条上杉満定の子とされる。二代忠定から臣籍に下り、加賀爪氏を称して当地新池郷に所領を得、館を構えたのである。それから五代目政豊の時、徳川家康の遠江進攻があり、家康に従って所領は安堵された。その後、代々徳川家に仕え、八代直澄のときには掛塚藩を立藩して一万三千石の大名になった。残念ながら二代藩主直清の時に領地問題が起きて改易、領地没収となり、断絶した。

 このような由来のある地でありながら、何の痕跡もないというのも寂しいかぎりではないだろうか。

↑館跡とされる地域

↑栄泉寺
2月19日(土)晴/丸根砦大高城鷲津砦星崎城鳴海城(尾張)
 久々の尾張城郭探訪に出かけた。今回は桶狭間合戦に関連する砦や城跡をめぐる予定だ。今回のコースは駐車困難な場所が多いため、徒歩と電車でまわることにした。

 まず、丸根砦、大高城、鷲津砦と徒歩でまわるために大高緑地公園の南端の駐車場に車を置いた。9時少し前である。ここから丸根砦は指呼の距離にある。ほぼ円形の丘である。
 丸根砦は今川方が尾張進出の前進拠点とした大高城の押さえとして織田方が築いた砦である。永禄三年(1560)当時、ここには佐久間盛重ら約四百人が配置されていたといわれる。桶狭間合戦の当日、戦いは大高城から出撃した松平元康勢千による丸根砦の攻撃ではじまった。半日におよぶ激戦の末、織田方はほぼ全滅して落砦した。

 丸根砦から大高城へと向かう。直線距離で約800mほどだが、道程は1.5kmほどになる。南西側の公園(大高城址公園)入口から入り北西側へと城址を抜けた。つまり、二の丸から本丸へと入って公園を出たことになる。二の丸と本丸への通路はかつての土橋であったようだ。
 大高城は水野氏の城で織田方の城であったが、鳴海城の山口氏がこの城を奪って今川方に寝返ったために今川方の持ち城になっていた。合戦前日の深夜、松平元康勢による兵糧入れが行われたことで有名である。松平勢は兵糧の搬入作戦を成功させると夜明け前には丸根砦への攻撃に取り掛かった。寝る間もなく働いたことになる。

 大高城から鷲津砦へと向かう。徒歩距離は約1.3kmほどである。JR大高駅の東側の丘がそうである。地理的には鳴海城と大高城の交通を遮断する位置にある。丘の麓(西側)と頂上部に小公園が設けられて石碑が建てられている。
 鷲津砦も丸根砦と同様に大高城の押さえとして築かれた織田方の砦である。織田秀敏、飯尾定宗ら約四百が守備に就いていた。合戦当日の未明から丸根砦とともにここ鷲津砦も今川勢の攻撃を受け、午前中には陥落している。

 ここから丸根砦までは600mほどである。そして緑地公園駐車場の車へと戻った。徒歩距離約4km、約2時間ほどかけてのんびりと歩いた。
 さて、次の予定地である鳴海城と星崎城である。こちらも駐車場などは無く、道も狭いことが予想されたため、電車で移動することに決めてはいたのだが、何駅から乗るのかまでは決めてなかったのである。各駅に駐車場が設けられているのなら問題ないのだが…。と、ナビの地図を動かしてトモ坊と思案する。すると名鉄の有松駅にショッピングセンターが隣接していることが分かった。よし、この駐車場を利用しよう。しかも、ここなら昼食もOKだ。ということで行動開始。
 ショッピングセンター(イオン)で腹を満たし、有松駅から本星崎駅へと電車に乗って移動した。

 本星崎駅から星崎城跡である笠寺小学校までは徒歩距離約400mほどである。城跡全体が小学校の敷地となっているようで、城址碑も南側の校門を入った所に建てられていた。城址碑は小学校の西側の秋葉社にも建てられている。星崎城は桶狭間合戦とはあまり関わりないが、近くにあるということで予定に入れたところである。
 天正十二年(1584)、織田信雄の家老で星崎城主であった岡田重孝らが秀吉に寝返ったとして信雄によって殺された。この事件が信雄の秀吉に対する宣戦布告となり、小牧・長久手の戦いへとなってゆくのだ。

 再び、本星崎駅から電車に乗り、鳴海駅で降りた。鳴海城址までは徒歩距離約350mほどである。城跡は鳴海城跡公園となって遊具などが設置されて子供たちの遊び場となっている。城址碑は公園東側100mほどの鳴海神社の境内に建てられている。
 鳴海城はうつけ信長に愛想をつかした城主山口左馬介が今川方に寝返り、桶狭間合戦時には今川の重臣岡部元信が城主となって織田方に対していた城である。合戦で主君今川義元が討たれた後も、岡部元信は城を守り抜いた。そして本国駿河からの帰還命令によって鳴海城を退城することになるが、その際に元信は織田信長に開城の条件として主君の首を返すことを要求した。信長もその忠義心に感じ、この要求を容れて首を返したという。

 これで本日の予定は終了だ。桶狭間合戦関連の史跡めぐりだけでもあと二度ほどは出掛けなくてはならないだろう。

↑丸根砦

↑大高城

↑鷲津砦

↑本星崎駅を通過する名鉄電車

↑星崎城

↑鳴海城
1月3日(月)曇/河津城深根城下田城吉田松陰踏海企ての地了仙寺(河津町、下田市)
 未明4時に浜松西ICから東名に乗り、一路東へと向かう。目標は伊豆半島南部下田である。ところが夜明け前だというのに牧之原と富士付近で渋滞。最初の登城地である河津到着は9時、予定より1時間ほど遅れてしまった。

 河津城は延徳三年(1491)に北条早雲の火攻めによって落城したとされ、近年まで城山では焼米を拾うことができたと言われている。城主は蔭山氏で、落城後は北条氏に従ったのであろう。天正十八年(1590)の豊臣秀吉の小田原征伐では、蔭山氏は戦わずに降伏したとされる。この時の当主蔭山氏広の養女お万は後に徳川家康の側室となり、紀州頼宜、水戸頼房の二子を産んだことで知られる。
 河津町の海辺に設けられた駐車場に車を置き、河津駅北側の登城口から登山を開始した。「城山ハイキングコース」の案内柱が立っているので迷うことはない。はじめは緩やかな上り坂であったが、中程からは急坂となる。階段が設けられて整備はされているが、かなりキツイ。年のせいもあろうが、途中幾度も足を止めてしまった。城好きに山坂は付きものとはいえ、ここのはキツイの一言だ。それでも、約20分ほどで城山頂上に着くことができた。山頂部は段階的に二つの小さな曲輪で構成されていることがすぐに分かる。ここから海上を眺めると伊豆大島が指呼の距離に見える。

 河津から山間(国道414)を抜けて下田へ向かう途中に深根城がある。早雲が韮山の堀越御所を襲って足利茶々丸を滅ぼし、伊豆を短期間で平定したというのはよく語られていることだ。戦わずして早雲に帰服した土豪が多かったのであろう。そんな中でこの深根城は徹底抗戦を貫いたことで知られる。城主は堀越公方の重臣関戸播磨守吉信である。言うまでもなく深根城は早雲の大軍に攻められて落城した。早雲は見せしめのために城主以下兵はもとより城内にいた女子供まで一人残らず首を切り、城の周りに晒したと伝えられる。
 現在の深根城址は個人の宅地、畑地となっている。遺構は土塁の一部が残る程度なのかもしれない。城址に住んでおられる方であろうか、竹林で作業している人がいたので、「こっちが城跡ですか」と挨拶すると「そう、何もないですよ」とにこやかに応えてくれた。

 この深根城には韮山で滅んだはずの茶々丸が御所を脱して逃げ込んでいたというのである。そして落城に際して自害して果てたとの伝承があり、その墓が残っているというのだ。城址から近いので寄ってみることにした。県道脇の電柱前に小さな石標「茶々丸之○」が立っている。最後の文字は見えなかったが「墓」であろう。ここから沢に沿って山へ登って行く。すると一般の方々の墓地に出る。茶々丸の墓はここからもう少し登った所にあった。苔むした二基の宝篋印塔である。茶々丸夫妻の首塚と言われているそうだ。

 深根城址から下田市街に出る前、蓮台寺という山間の里がある。ここに「吉田松陰寓寄処」と名付けられた茅葺の古民家が史跡として残されている。医師村山行馬郎の屋敷跡である。松陰は金子重輔を伴い、海外密航のために黒船便乗を果たさんと浦賀から陸路、ペリー艦隊を追って下田にやってきた。便乗決行(海外渡航/踏海)までの数日間、この村山邸で過ごした。
 玄関先には温泉の湯が竹筒から流れ出ている。ここは温泉の町でもある。屋内では案内の方が松陰にまつわる話を聞かせてくれる。屋根裏部屋は松陰先生隠れの間としてあった。

 下田市街地を突っ切って海辺の下田城址公園へと車を走らせる。
 下田城は後北条水軍要の城として築かれた水軍城である。天正十八年(1590)の小田原征伐の戦いでは六百の寡兵ながらも一万四千の大軍を相手に50日ほどを戦い抜き、開城勧告を受け入れて落城した。水軍城としても、また山城としてもその規模は伊豆半島最大と言われる。
 公園入口には真新しい「下田城址」の石碑が建っている。ここから登城開始だ。広い坂道を上るとすぐに開国広場と呼ばれるところに出る。この広場の周辺にはいくつかの開国関連の記念碑が建てられている。そう、下田は日本が外国に門戸を開いた街でもあるのだ。ここに城山の説明と案内図が立てられており、城内各所に通じる道が図示されている。すへての通が整備され歩きやすくなっている。私も図示された天守台や各方面の展望台へと向かった。城内の周遊は急な登坂路も少なく楽に歩き回ることができる。肝心の城の遺構はというと、天守台周辺に堀が残る程度で、あまり迫力のあるものではなかったような気がする。

 続いてペリー上陸の地、了仙寺(下田条約締結の地)、下田開国博物館と歩いてまわり、空きっ腹を満たそうと蕎麦屋に駆け込んだ。所変われば品変わるで、下田の蕎麦は白くて細く、そうめんかと思うほどであった。店を出て近くの「吉田松陰拘禁の跡」に立ち寄り、車へ戻った。相棒のトモ坊も腹を満たして満足そうだ。
 続いて下田湾の東側、松陰と金子重輔が黒船に向かって舟を漕ぎ出した弁天島へと移動した。弁天島は堤防を兼ねた公園として観光スポットにもなっている。公園入口に掲げられた「踏海企ての図」は松陰と金子重輔が米艦に向かって舟を漕ぎ出す緊迫感あふれる見事な絵だった。松陰の憂国の精神がひしと伝わってくるのは私だけではないと思う。

 時間は15時を過ぎている。もう一ヵ所、城跡へ寄る計画であったが、帰りの渋滞も予想されたため、帰路につくことにした。予想通り、渋滞と混雑の東名高速であったが、21時半頃には帰宅できた。

↑河津城 主郭

↑深根城 土塁

↑茶々丸の墓への登り口

↑吉田松陰寓寄処 村山邸

↑下田城 天守台

↑了仙寺

↑弁天島の吉田松陰と金子重輔の像

↑松陰先生踏海企ての図