深堀陣屋
(ふかほりじんや)

           長崎県長崎市深堀町五丁目      


▲ 深堀陣屋跡は江戸期以前の深堀氏の館を継承したものと思われている。現在も、石段や石垣の
一部が残るようだが、カトリック深堀教会の敷地となっているため確認できない。この石碑の右側は
教会の深堀純心幼稚園で、園庭に遊具が見える。その向こうにわずかであるが石段が見える。

義士のさきがけ

 承久の乱(1221)後、鎌倉幕府は朝廷方の所領を没収して戦功のあった御家人に配分した。その多くが西国にあり、関東の御家人が新補地頭として赴任した。深堀氏もこの新補地頭として九州に移った御家人のひとりであった。

 深堀能仲が上総国深堀(千葉県いすみ市深堀)から肥前国戸八ヶ浦(長崎半島西部)に赴任して土着したのが建長七年(1255)であったと伝えられている。その後、蒙古襲来時(文永・弘安の役/1274・1281)には九州の御家人として博多に出兵、隠岐にまで渡って活躍している。そして南北朝の争乱を生き抜き、戦国の時代を迎える。

 戦国期、深堀氏は諫早西郷氏(諌早城)から養子を迎えて当主とした。十八代純賢(すみまさ)である。純賢は西郷氏と協力して大村氏、長崎氏との抗争を繰り返し、天正五年(1577)からは肥前平定を目指す龍造寺氏に属して大村氏と争った。

 その後、宿敵大村氏は龍造寺氏に降ったが、新たな敵島津氏が有馬氏を味方にして肥前に現れることとなる。そして天正十二年(1584)、有馬・島津の連合軍六千の前に龍造寺軍三万は撃破され、当主隆信も討死してしまった。純賢は隆信敗死後も龍造寺氏に属して島津氏に反抗し続け、天正十五年(1587)の豊臣秀吉の九州征伐時にはこれに従って所領を安堵された。

 この時、龍造寺氏に代わって鍋島直茂が実権を握ったが、純賢は直茂に従い、姓も鍋島に改めた。純賢は鍋島重臣石井信忠の妻を後妻に迎え、その子茂賢(しげまさ)に家督を譲った。

 その後、茂賢は佐賀鍋島藩の家老として深堀の地に六千石を賜った。名は鍋島となったが鎌倉期以来一貫して深堀の地の主として明治に至ることになる。

 江戸時代の元禄十三年(1700)十二月、長崎大音坂で深堀家臣深堀三右衛門と柴原武右衛門が跳ねた泥が原因で町年寄高木彦右衛門の仲間惣内と喧嘩となった。惣内は相当酔っていたといわれる。その場はなんとか収まったが、その日の夕刻になって惣内は朋輩らとともに長崎の深堀屋敷(五島町)に押しかけ、三右衛門と武右衛門の大小を奪い取ってしまったのである。武士にとっては面目にかかわる一大事である。三右衛門と武右衛門は高木屋敷(浜町)への討入りを決意した。翌夜明けとともに十九人の加勢を得て討入り、高木彦右衛門ら仲間多数を討取った。討入り後、三右衛門は高木屋敷で切腹、武右衛門は大橋(鉄橋)で切腹して果てた。

 後日、幕府の処断によって加勢の十人に切腹、九人に五島への遠島が決まった。彼らを深堀義士と呼ぶ。

 この二年後に赤穂浪士による吉良邸討入りが起こるが、大石内蔵助は遠島となった五島へ家来を遣わして討入りの参考にしたと言われている。

▲ 陣屋跡の東側の武家屋敷通りに残る武家屋敷跡。
これは深堀家三番家老樋口家の石塀と門である。

 ▲ 武家屋敷の石塀の前に建つ石碑。
▲ 深堀神社。この鳥居は石神門と呼ばれ天保八年(1837)の再建である。鳥居の柱には深堀創設の由来が刻まれている。

▲ 陣屋跡の石碑は幼稚園の前に建っている。

▲ 菩提寺。初代深堀能仲の建立と伝わる。石造りの山門は安政七年(1860)二十九代茂精公の時のものである。

▲ 深堀義士の墓碑。討入りに関与した二十一人の墓である。

▲ 深堀鍋島家墓地。藩制下における十九代茂賢以後の領主、夫人、一族の墓が並んでいる。
----備考----
訪問年月日 2011年5月2日
主要参考資料 「日本城郭大系」他

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