諫早城
(いさはやじょう)

長崎県諫早市高城町


▲ 諫早城は高城と呼ばれる城で別名亀城とも言われる。公園化されたために土塁な
どの遺構は一部にしか見ることはできない。本曲輪跡のこの大楠は樹齢600年から
800年といわれるから、西郷氏がここに城を築いた時には存在していたことになる。

肥前西郷氏の古城

 諫早城は歴史的には高城または伊佐早城と呼ばれ、別名亀城とも呼ばれる。

 諫早には南北朝期に伊佐早氏がいたが、戦国期の文明十年(1478)頃に、宇木城(諫早市有喜町)に拠る西郷石見守尚善がこれわ滅ぼしてこの地に進出した。諫早西郷氏のはじまりである。

 この西郷氏の先祖は肥後菊池氏の分流といわれ、島原半島北部の杉峰城から宇木城に移ったものとされているが、確実なものではない。他に肥前国三根郡の綾部氏の流れであるとも言われている。興亡著しい戦国乱世の時代であるから史料の焼亡、滅失あるいは抹殺行為によって分らなくなってしまったことが多いのは残念であるが仕方がない。

 ともかく高城を築き、有馬氏(日野江城)の後援を得て近隣に武威を示した尚善は大永三年(1523)には深堀氏(深堀陣屋)と協力関係となり、深堀善時の烏帽子親となっている。また、水路、水門を造り、領内開発にもその力を注いでいる。

 しかし、尚善に男子なく有馬晴純の弟純久を養子に迎えて諫早西郷の二代目とした。純久の事績は不明であるが、有馬氏の傀儡であっただろう。

 永禄五年(1562)、純久の後を継いだ嫡男純堯は有馬軍の一翼を担って龍造寺攻めに出陣した。しかし有馬方は丹坂の戦いで敗北した。

 純堯はこの後、大村氏との抗争に明け暮れることとなる。永禄八年(1565)、純堯は弟純賢に深堀氏を継がせて密接な関係を築き、大村氏との攻防を激化させている。

 天正五年(1577)、力を増大させつつあった龍造寺隆信が諫早に迫った。純堯は有馬氏に救援を求めたが、有馬配下の諸氏が龍造寺方に付くなどしたために援軍を得られず、弟深堀純賢の仲介で龍造寺氏と和睦して危機を乗り切った。

 この年、純堯は隠居して信尚に家督を継がせた。

 天正十二年(1584)、衰退の危機にあった有馬氏は島津氏と結んで龍造寺氏を沖田畷に破り、隆信を敗死させた。龍造寺方はこの敗戦で家中の鍋島氏が主家にとって代わることになる。

 天正十五年(1587)、豊臣秀吉の島津征伐。九州所在の諸将はこぞって秀吉のもとに参陣したが、なぜか西郷信尚はこれに応じなかった。そのために所領を没収されて龍造寺家晴に与えられることになった。城受け取りのために迫った龍造寺軍に対して信尚は抗戦したものの敵わず、城を脱して落去した。諫早西郷氏の終焉である。

 この年、信尚の叔父で宇木城主の西郷純門と天祐寺(初代尚善創建)泰雲和尚ら諫早西郷の残党が決起して高城奪回を試みているが失敗に終わっている。

 以後、諫早の地は龍造寺家晴の治めるところとなり、慶長十六年(1611)二代直孝のときに姓を諫早に改め、鍋島佐賀藩の重臣(親類同格)として代を重ね、明治に至った。

 諫早を去った西郷氏はその後、島原半島北岸の西郷に逃れて有馬氏に庇護された。信尚とその家族、家臣らはキリシタンとなった。さらにその後、信尚は娘婿の平戸藩主松浦鎮信を頼り、その子孫は代々松浦家臣として仕え続けた。

▲ 登城路から腰曲輪へと続く石段。
 ▲ 城址直下の高城神社。明治十五年(1882)、竜造寺家晴を祭神として創建された。
▲ 神社北側の登城口。

▲ 本曲輪の周囲はこのような通路になっており、かつては腰曲輪であったようだ。

▲ 本曲輪西側には低いが土塁の跡が見られる。

▲ 本曲輪跡の亀の塔(がめんとさん)。右の塔は七代茂晴が正徳五年(1715)に、左の塔は八代茂行が寛保元年(1741)に国家安泰を祈って建立した。

▲ 本曲輪跡の忠魂碑。

▲ 諫早市によって建てられた碑。碑面には諫早家の好意により大正8年(1919)に市民に開放され、昭和33年(1958)に諫早市に寄贈されたとある。

▲ 本曲輪からの展望。この日は曇に加えて黄砂の影響で展望日和ではなかったのが残念である。

▲ 城址のすぐ近くに移築された眼鏡橋。天保十年(1839)に城の北側を流れる本明川に架けられたもので国指定の重要文化財となっている。

----備考----
訪問年月日 2011年5月3日
主要参考資料 「日本城郭大系」
「西郷氏興亡全史」他

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