玖島城
(くしまじょう)

県指定史跡(大村藩お船蔵跡)

長崎県大村市玖島


▲ 玖島城(大村城)は近世大村氏の居城として江戸期を通じ、他氏に変わることなく
明治に至った。本丸に天守を持たない館造りの城であったが、その石垣構築と
巧妙な虎口構成は天守はなくとも十分に私たちの目を楽しませてくれる。

海城こそ要害の城なり

 大村氏の歴史は古そうであるが、その詳細はあまり伝えられていないようだ。鎌倉期にこの地方の地頭に任じられたとも言われ、蒙古襲来の時にはその戦いに参加したことが伝えられている。南北朝の争乱では南朝方にその名が見えるが、大村氏の活躍が顕在化するのはやはり戦国期に入ってからであろう。

 永禄七年(1564)、大村純忠が本格的な城の必要性を感じて三城を築いた。それまでは館構えの城であったというから、この時代としては危ないはなしである。純忠は初のキリシタン大名としても知られる。

 天正十五年(1587)、純忠は豊臣秀吉の島津征伐に参陣して所領を安堵されたがほどなくして死去、嫡男善前(よしあき)が家督を継いだ。

 秀吉の死後、不穏な天下情勢に対処するため、善前は新城の築城に踏み切った。城地は朝鮮の役で得た教訓を生かして海辺に築くことにしたのである。
「海城こそ要害の城なり」
 ということであろう。それがこの玖島城なのである。

 当初、杭出津の海辺に築城を始めたのであるが、一転二転してここ玖島の地に決まったという。工事は慶長三年(1598)始まり、突貫工事で進められたものと思われ、善前はその翌年には三城からここに移ったとされている。

 関ヶ原合戦時(1600)、善前は石田三成に応ずることなく在国のまま使者を関東に走らせ、家康に臣従を誓った。このことにより、所領は安堵された。

 天下の趨勢を見誤れば簡単に所領を没収され、滅ぼされてしまう時代なのだ。家康に臣従したことで大村氏は先祖以来の地を明治に至るまで保つことができたのである。数ある諸大名のなかでも稀有な存在といえる。

 ところで純前は幼くして受洗したキリシタンであった。しかし、父純忠ほどに熱狂的なものではなかったようだ。慶長七年(1602)には教会を焼き払い、日蓮宗に改宗してしまった。加藤清正(熊本城)の影響といわれる。その後、幕府の禁教令が出されるなどして善前はキリシタンの弾圧を続けた。

 慶長十九年(1614)、玖島城の改築が行われた。これも加藤清正の助言をもとにしたと言われている。

 元和二年(1616)、善前没する。迫害を受けるキリシタンによる毒殺であったともいわれている。二代藩主となった純頼も父の急死から三年後に吐血して亡くなった(二十八歳)。これもキリシタンによる毒殺であったといわれている。

 三代藩主純信も嗣子なく早逝したため改易の危機に瀕したが、末期養子(純長)を迎えて事なきを得た。

 その後、善前を初代とする大村藩は十二代続いて明治に至った。

▲ 県指定史跡となっている「大村藩お船蔵跡」。四代藩主純長が元禄年間
(1688-1704)に築造したもので、海に面した玖島城ならではの遺構である。


▲ 城の東側の堀。角堀と呼ばれる。

▲ 城の南面に復元された板敷櫓。

▲ 大手口。この鳥居は明治に入り、歴代藩主を祀るために本丸跡に建てられた大村神社のものである。

▲ 大手枡形。大手から入ると4回進む向きを変えさせられる。

▲ 本丸には二ヵ所に枡形虎口が設けられている。これは台所口門跡。

▲ 本丸北側に見られる雁木段。

▲ 搦手門。本丸の北側にあり、当初はこちらに大手門があったという。

▲ イロハ坂詰櫓門跡。

▲ お船蔵跡を北側から見る。車の向こう側は粮米蔵屋敷跡である。

----備考----
訪問年月日 2011年5月3日
主要参考資料 「日本城郭大系」
 ↑ 「おおむらの史跡」他

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