関ケ原古戦場 床几場
(せきがはらこせんじょう)
(しょうぎば)

国指定史跡(徳川家康最後陣地)

岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原


▲床几場は桃配山から前進して本陣を構えた場所である。
(写真・竹中氏によって整備された床几場)

勝利の首実検

 慶長五年(1600)九月十五日十時頃、徳川家康は一進一退の戦況を覆さんと関ヶ原の入口桃配山の陣から前進を始めた。みずから本陣を進めることで士気を鼓舞するためである。法螺貝を吹かせながら本陣前衛の旗(家康本陣の前方1.3kmにあった)を1kmほど進め、みずからも移動を開始した。家康自身の前進は2kmほどとなり、現在のここ陣場野に本陣を構えた。

石田三成、島津義弘、小西行長らの西軍左翼の陣地に対しては600mから700mの至近の位置である。石田三成六千の陣地に対しては黒田長政、細川忠興、田中吉政、加藤嘉明、筒井定次ら合わせて一万九千余の軍勢が殺到して死闘を繰り返している。島津義弘千五百に対しては井伊直政三千六百と松平忠吉三千が、小西行長四千に対しては寺沢広高、戸川達安、一柳直盛、浮田詮家らがそれぞれ襲い掛かかり、激闘の最中である。家康は最前線近くに乗り出すことで味方を督戦し、この日のうちに決着を付けたかったのである。

それにしても松尾山の小早川秀秋が午後になっても動こうとしない。家康は小早川の陣に軍監として奥平貞治を派遣していた。同様に黒田長政も家臣大久保猪之助を送り込んでいる。すでに秀秋の腹は決まっているはずなのだ。

家康は使番山上郷右衛門を黒田陣へ走らせて松尾山の状況を問わせた。ところが黒田勢は笹尾山前面の島左近勢との激闘の最中である。長政は郷右衛門に向かって「今は眼前の敵に死力を尽くすのみ、金吾(秀秋)が動かぬならば治部(三成)を討ち取った後に金吾も討ち果たすべし」というようなことを言い放ったという。

郷右衛門の報告を受けた家康は「甲州(長政)の言う事尤もなり」と褒めた後、鉄砲頭の布施孫兵衛を呼び「松尾山へ鉄砲を撃ち込めやい」と命じた。孫兵衛は配下十人ほどを引き連れ、福島正則の陣地へ走った。ここで福島家鉄砲頭の堀田勘左衛門とともに松尾山へ向けて鉄砲十挺づつをつるべ撃ちしたという。これが効いたのか、小早川勢は怒涛の勢いで松尾山を駆け下り、大谷吉継勢へ襲い掛かったのである(鉄砲の撃ちかけはなかったとする説もある)。

小早川秀秋の東軍への寝返りは松尾山山麓の藤下台に布陣して傍観していた脇坂安治、朽木元網、小川裕忠、赤座直保の諸勢をも東軍へ寝返らすことになった。

大谷勢はやがて壊滅にいたり、戦況はにわかに東軍優勢となり、西軍は総崩れとなった。東軍の勝利が確実となった頃、突如として家康本陣の前を駆け抜けて行った一団があった。島津義弘の一隊であった。この島津勢の敵中突破を最後として戦いは終わった。

家康の前には西軍諸士の首級が次々と届けられた。家康は床几に腰掛け、首級の一つ一つを検分して勝利の勝鬨を上げた。

合戦後二百四十二年を経た天保十三年(1842)、幕命により領主竹中重明(初代半兵衛重治の十三代目)によって床几場跡に土壇が築かれ土塁で囲み、史跡保全の処置がとられた。参勤交代時、ここを通過する大名は皆立ち寄り、拝礼したという。

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▲領主竹中氏によって天保13年(1842)に築かれた床几場の土壇。石碑は明治39年(1906)に建てられた「床几場徳川家康進旗験馘處」の碑。

▲徳川家康最後陣地の碑。

▲岐阜関ヶ原古戦場記念館。

▲床几場や家康最後陣地碑のある陣場野公園。

▲領主竹中氏によって整備された床几場。

▲陣場野公園の田中吉政陣跡。

▲東首塚近くの井伊直政、松平忠吉陣跡。

▲東首塚。床几場で検分された首級や決戦地付近で斃れた将士が埋葬されたという。

----備考----
訪問年月日 2022年7月31日
主要参考資料 「陣跡が伝える関ヶ原の戦い」他

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