関ケ原古戦場 桃配山
(せきがはらこせんじょう)
(ももくばりやま)

国指定史跡(徳川家康最初陣地)

岐阜県不破郡関ケ原町大字野上


▲桃配山は関ケ原合戦時に徳川家康が最初に本陣を置いた所である。
(写真・桃配山と国道21号線)

濃霧の中、両軍激突

 慶長五年(1600)九月十四日正午頃、石田三成らが本営とする大垣城の北西4kmの岡山に徳川家康が本陣を置いた。すでに周辺には東軍勢七万余が集結していた。

当初、家康は大垣城を攻略するために水攻めを思案していたといわれているが、それでは日数がいたずらに過ぎるばかりでその間の情勢の変化を恐れていた。大阪城からの秀頼本隊の後詰やら今は味方となっている秀吉子飼いの大名らの気変わりなどである。

「即戦即決、野戦にて雌雄を決すべし」家康の腹は決まった。

直ちに「明日は佐和山城を落とし、大坂へ向かわん」との風聞を大垣城内へ吹き込み、西軍勢の転進を煽った。

 案の定、日が暮れて雨降る漆黒の闇の中、大垣城内の西軍勢は石田三成を先頭に城外へ出、南宮山の南麓を迂回して関ケ原への移動を開始した。

 就寝中の家康はこの報せに「してやったり」と飛び起きた。湯漬けをかっ込み、具足を着けると馬に乗って一散に駆け出した。家来が「どちらへ」と尋ねると家康は「敵のほうじゃ」と答えたという。大慌ての旗本隊が家康の後を追い、垂井で人数が揃ったとされる。

 東軍諸隊も十五日午前三時頃から移動を開始、関ケ原へ向かった。家康も垂井から東山道を西へ進んだ。街道は南宮山北麓を抜けている。南宮山には毛利秀元、吉川広家の軍勢一万八千が布陣している。

家康は池田輝政、浅野幸長、山内一豊の隊を街道上に配して南宮山の毛利勢に備えさせ、みずからはさらに進んで桃配山に陣取った。午前六時頃とされる。この頃には両軍ともに関ケ原の山野に充満して一触即発の状態となっていた。ただ、深い霧の中とあって両者ともに手探り状態であったといえる。

ちなみにここ桃配山は壬申の乱(672)当時に大海人皇子が布陣した場所でもある。布陣した皇子のもとへ村人から山桃が献上された。皇子はその山桃が美味であったので士気を上げようと兵士たちに配ったという故事により桃配山の名が伝えられたのである。

濃霧が晴れ始める午前八時頃、井伊直政隊の抜け駆けによって始まった戦いは一斉に両軍の激突へと発展した。しかし桃配山の家康本陣からは銃声と喚声は聞こえるが視界が不明瞭で戦況の把握に苦しんだという。

午前十時頃、ようやく晴れ渡り、石田三成の布陣する笹尾山をはじめ西軍諸隊の布陣位置と戦況がつかめた。戦況は一進一退、家康は全軍の士気を鼓舞するために法螺貝を吹き鳴らしながら桃配山から駒を徐々に進めた。

午前十一時頃、家康は桃配山から2kmほど西へ前進して本陣とした。現在の陣場野(床几場・家康最後陣跡)である。石田三成の笹尾山からは1km足らずの距離であった。

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▲陣地跡から笹尾山方面を見る。

▲陣地跡に建つ史跡碑。

▲桃配山陣地跡への登り口。

▲坂の上の軍旗の立つ所が陣地跡。

▲旧史跡碑。

▲徳川家康が使用したと伝わる腰掛石と机石。

▲最初陣地の説明版。

▲駐車場は国道の北側にある。

----備考----
訪問年月日 2022年5月3日
主要参考資料 「関ケ原 名所・古跡」他

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