(おおがきじょう)
市指定史跡、続百名城
岐阜県大垣市郭町2
▲ 大垣城は関ヶ原合戦に先立ち、石田三成が西軍の本営として陣取った
城として有名である。城攻めの苦手な徳川家康は水攻めを考えていた
という。結局は三成らは大垣城を出て関ヶ原に向かったのであったが…。
(写真・大垣城天守閣と戸田氏鉄公騎馬像。)
天下分け目、西軍の本営となる
大垣城がその名を大きく歴史に刻んだのは何と言っても関ヶ原合戦(慶長五年/1600)に際し、徳川家康と雌雄を決するために石田三成がこの城を本営としたことであろう。その大垣城の歴史はこれから百年ほども遡ると言われるが、前半の半世紀ほどは諸説錯綜していて誰が築城者で城主であったのか定まっていない。 |
▲大垣城天守閣。四層四階の天守は珍しいという。戦災で焼失するまでは国宝であった。昭和34年(1959)に郷土博物館として鉄筋コンクリ造りによって再建された。さらに平成22年(2010)の改修工事によって国宝当時の外観に復元された。 |
▲ 乾隅櫓。昭和41年(1966)に復元整備された。 |
▲ 大垣公園内の濃飛護国神社。かつての二の丸跡にあたる。 | ▲ 大垣城西門。昭和60年(1985)の修景整備の際に造られた。模擬の門である。 |
▲ 西門の前に建つ戸田氏鉄公の騎馬像。戸田氏は大垣藩十万石の城主として十一代続いて明治を迎えた。 |
▲模擬西門。 |
▲ 天守前に建つ城址碑。 |
▲ 大垣城東門。かつての柳口門を移築したもので本来はここに門はなかった。 |
▲ 艮隅櫓。 |
▲ 戊辰の役顕彰碑。大垣藩は鳥羽伏見の戦いでは幕軍として戦ったが直ちに勤皇に転じて藩兵千二百人を出兵させて戦功をあげた。 |
▲ 「おあむの松」。関ヶ原合戦時、山田玄暦は家族とともに三成に属して大垣城に籠っていた。おあむはこの玄暦の娘である。おあむ一家は西堀端の松からたらい舟に乗って無事脱出できた。この松は二代目だそうだ。ちなみに籠城中の話しを伝えた「おあむ物語」は有名である。 |
▲ 明治29年(1896)大垣の約8割が屋根まで達するという大水害を蒙った。石垣に刻まれた横線(→)はその時の水位を伝えている。 |
▲ 鉄門跡。二の丸と本丸が繋がる唯一の門が鉄門であった。 |
▲ かつての本丸城郭図。現状とはかなり違っている。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2012年11月3日 |
主要参考資料 | 「大垣城の歴史」 |
↑ | 「大垣城物語」他 |