嘉吉の乱(1441)で滅んだ播磨・美作・備前の守護赤松氏であったが、応仁の乱(1467)に乗じて再び三ヵ国の守護に返り咲いた。この赤松氏中興の祖となったのが赤松政則である。
政則は播磨奪回の功労者で重臣の宇野政秀(赤松一族)を庶子の村秀の後見とした。長男であったが、正室の洞松院(細川勝元の娘)に遠慮して政秀に預けた(養子)とされる。
赤松村秀(四歳)を託された宇野政秀は明応八年(1499)頃に龍野城を築き、周辺の地頭衆を配下に任じて配置したという。
天文九年(1540)、村秀没して子の政秀が龍野城主を継いだ。この当時の守護赤松晴政の権威は地に落ち、守護代浦上氏や重臣小寺氏(御着城)の台頭が著しく、永禄元年(1558)には晴政の子義祐が傀儡として擁立され、晴政は追放されている。
この追放された赤松晴政を迎えたのが龍野城主赤松政秀であった。永禄七年(1564)、政秀は晴政を追放した浦上政宗を室山城(たつの市御津町)に襲って討ち取り、永禄十二年(1569)には小寺氏討伐のために新将軍足利義昭の後ろ盾のもとに姫路へ進攻している。この戦いでは姫路城の黒田孝高の善戦によって大勢でありながら敗退させられてしまった。この敗戦の痛手は大きく、その後の政秀の勢威は復活することなく、浦上氏に伏して後に謀殺されたという。
元亀元年(1570)、政秀そして嫡子広貞が相次いで死去したため、次子の広秀(八歳)が龍野城主を継いだ。この当時畿内の制圧を進める織田信長の躍進が著しく、播磨の諸氏も織田方に属する流れとなっていた。天正三年(1575)には御着城の小寺政職、三木城の別所長治と共に上洛して信長に謁見している。その後、播磨国内は西の毛利方に付く者が出て混乱状態となり、広秀も毛利方となっていたようだ。
天正五年(1577)暮れ、播磨平定を進める羽柴秀吉が大軍を率いて上月城(赤松政範)攻略の途次に龍野城を囲んだ。城内では抗戦の空しさを察した家臣らの進言を受け入れ、広秀は家名存続のために降伏を決した。広秀は秀吉に城を明け渡して平井郷佐江村の乙城(龍野城の南西約3.5km)に退いた。
赤松広秀の去った龍野城には秀吉の近臣石川光元が一万石を与えられて城主となった。この光元が山城であった龍野城を麓に移したと言われている。
天正八年(1580)、播磨を平定して姫路城を本拠とした秀吉は直臣蜂須賀正勝に五万三千石を与えて龍野城主とした。ちなみに乙城に蟄居した赤松広秀は正勝の与力に組み込まれて戦陣を共にしたが旧領復帰はかなわず、天正十三年(1585)に但馬竹田城二万二千石に封じられて家名存続が認められた。儒学を尊び、善政をもって領民に慕われたという。しかし、関ケ原(1600)後の鳥取城攻めに際して城下を焼き払った罪により徳川家康の命で自刃させられてしまった。享年三十九歳であった。
蜂須賀正勝の後、龍野城主は福島正則、木下勝俊、小出吉政、石川光元と数年毎に替わった。関ケ原(1600)後は姫路城主となった池田氏の持城となり、元和三年(1617)には本多政朝が五万石で入部して立藩した。
本多氏の後、十年の間に小笠原長次(六万石)、岡部宣勝(五万三千石)、京極高知(六万石)と城主が替わった。万治元年(1658)に京極高知が丸亀城移転に際して龍野城は破却された。
寛文十二年(1672)、脇坂安政が五万三千石で入部、城の再建が許された。以後、脇坂氏が十代続いて明治に至った。
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