姫路城
(ひめじじょう)

国指定特別史跡・国宝・世界遺産・百名城

兵庫県姫路市本町


▲姫路城は南北朝の頃に赤松氏によって砦が姫山に築かれ、戦国期には
黒田氏によって城砦化が進められた。羽柴秀吉による中国攻めの際にはその
拠点となり、関ケ原合戦後には西国外様大名を監視する押さえの城となった。
(写真・大天守と小天守。)

中国攻略の城から西国押さえの城へ

 元弘三年(1333)、大塔宮護良親王の令旨を受けて挙兵した播磨佐用の武士赤松則村(円心)が六波羅(京都)攻めの途次に姫山にあった寺院を砦に改修したのが後の姫路城の前史とされている。赤松則村は家臣の小寺頼季を姫山の守将とした。

 その後赤松氏は足利尊氏とともに室町幕府開府に貢献、播磨、摂津二カ国の守護となった。則村自身は白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町)を居城とし、貞和二年(1346)に次男貞範をして姫山を城砦化させた。城将は引き続き小寺頼季が務め、その後も小寺氏が代々城主を引き継いでいた。

 嘉吉の乱(1441)で赤松氏が討伐され、城主の小寺職治も討死して播磨は山名持豊(宗全)が守護となった。姫山城にはその家臣太田垣主殿佐が入ったとされる。

 応仁の乱(1467)時、赤松氏再興を果たした赤松政則が細川氏(東軍)に付いて播磨を山名氏から奪回、守護となった。政則は姫山城を改修して本丸、鶴見丸、亀居丸を築いた。しかし、平山城の姫山城では大軍の攻撃に耐えられるものではなかったため、政則は山城の置塩城(姫路市夢前町)を築いて本城とした。姫山城は小寺豊職が城代となり、置塩城の支城となる。

 延徳三年(1491)、小寺豊職の子政隆が城代となる。政隆は永正十六年(1519)に御着城を築いて居城とし、姫山城には支城として子の則職(のりもと)が入った。

 この当時、赤松氏の重臣浦上村宗が当主赤松義村を暗殺して実権を欲しいままにしていた。小寺政隆は義村の遺児赤松晴政を擁して浦上村宗と戦ったが、享禄三年(1530)に庄山城(姫路市飾東町)にて敗死してしまう。姫山城の則職は父政隆の後を継いで御着城に移り、姫山城は小寺家中の八代道慶(姫路城の北隣/現姫路市八代に居住)が預かったと言われる。

 天文十四年(1545)になると黒田重隆が城代となる。重隆は目薬を売って財を成し、龍野城の赤松氏に仕えたと伝えられているが、この当時は御着城主となった小寺政職に子の職隆と共に仕えていたようだ。

 永禄元年(1558)、この頃より小寺政職は守護赤松晴政の嫡子義祐や浦上氏と組んで晴政を追放し、赤松宗家の有力者となっている。その小寺氏のもとで重隆・職隆父子は預かった姫山城に手を加え、永禄四年(1561)頃には砦程度の規模であったものから城郭と呼べるほどにまで拡張整備したと思われ、名も姫道(姫路)と呼ばれるようになったのもこの頃からのようである。

 黒田職隆は小寺政職の養女(明石氏)を娶って小寺氏を名乗り、家老に列した。また姫路城下に百間長屋を建てるなどして城下発展の基礎を築いた。

 永禄十年(1567)には職隆は隠居して嫡男孝高が家督と家老職を継ぎ、姫路城代となる。

 この翌年、龍野城の赤松政秀三千人の軍勢が姫路城に迫った。政秀は赤松宗家への対抗意識が強く、織田信長によって将軍となった足利義昭へ独自に接近しようとしており、危機感を抱いた宗家の義祐が政秀を攻撃していたのである。それが将軍義昭の援軍(織田・別所勢)を得た政秀が逆に勢いを得て小寺氏の支城である姫路城へ押し寄せてきたのである。小寺氏の軍勢の大半が赤松義祐の居城置塩城に籠城してしまったために姫路城の孝高のもとには兵三百人ほどしかなかった。孝高は籠城は無理と判断、出戦して奇襲、夜襲などで赤松勢を翻弄した。この戦いで赤松勢を敗走させることに成功したものの孝高にとっては戦死者を多く出した痛恨の戦いとなった(青山・土器山合戦)。

 しかし、この戦いに敗れた龍野の赤松政秀は没落し、後に浦上氏によって殺されてしまう。

 その後、将軍義昭と織田信長の関係が険悪となり、信長を封じ込める包囲網が形成される。信長は叡山を焼討、浅井・朝倉氏を滅ぼしてその苦境を打開、将軍義昭を追放して室町幕府をも瓦解させて勢力を立て直し、歴史の歯車は信長を中心に動き始めてゆくことになる。

 織田信長の行動に注目していた孝高は主君小寺政職に信長への臣従を進め、天正三年(1575)には孝高みずから羽柴秀吉の仲介により岐阜城にて信長に謁見した。この時、信長から名刀「圧切長谷部」を与えられた。この翌年には小寺政職、赤松広秀(政秀嫡子)、別所長治が揃って上洛、信長に拝謁した。

 この頃より播磨は毛利と織田の勢力に挟まれて在地の武将らの帰趨が注目されるようになる。天正五年(1576)五月、孝高と近しい関係であった英賀城主の三木通秋が本願寺門徒ということで信長に敵対、毛利方に付いた。毛利氏は織田方の小寺氏に対抗するために水軍の将浦宗勝の水軍勢を英賀に進出させた。三木・浦両軍合わせて五千の軍勢であったのに対し、小寺勢は二千であったという。しかも御着城と姫路城の守備に兵力を割かねばならず危機的な状況にあった。孝高は五百の兵を集めると城を出て上陸直後の浦勢を襲い、近隣の農民を結集して旗を揚げさせて大軍を装うなどの奇策を用いて撃退に成功した。

 10月、信長の命を受けた羽柴秀吉が播磨へ進駐することになった。姫路城の孝高は二の丸に移って本丸へ秀吉を迎えた。姫路城を中国攻略の拠点とするように進言したのである。

 姫路城を拠点とした秀吉は但馬へ出兵して竹田城を落とし、自らは播磨国内の上月城、福原城を落として播磨をほぼ平定した。孝高も秀吉に従って出陣、活躍している。

 翌、天正六年(1578)三月、三木城の別所長治の謀反によって東播磨諸氏が離反、さらに摂津有岡城の荒木村重の謀反が起き、これに呼応して小寺政職も反旗を翻したため秀吉の中国攻略が難航する。

 それも天正八年(1580)には三木城も落城、織田勢の巻き返しが始まり、御着城の小寺政職は毛利氏を頼って備後鞆の浦へ落ちた。主君の逃亡によって孝高は黒田姓に復したと思われ、正式に織田家臣となり、秀吉の与力となった。

 当初、秀吉は三木城を播磨経略の拠点にしようとしたが孝高は姫路城を拠点とするように進言して城を出た。孝高は父職隆と共に姫路城の南の国府山城(姫路市飾磨区妻鹿)に移り、秀吉の命により浅野長政らと姫路城の大改修に取り掛かった。石垣で固めた近世城郭としての姫路城(この頃に姫路城と改称されたとも言われる)が完成し、三層の天守も築かれた。

 天正九年(1581)、秀吉は完成した生まれ変わった姫路城で大茶会を開いた後、鳥取城を攻め、淡路を平定して翌年にはいよいよ備中国へと駒を進め、備中高松城を囲んだ。

 天正十年(1582)六月、本能寺の変。中国大返しで明智光秀を破った秀吉は翌十一年(1583)には柴田勝家を滅ぼして新たに築いた大坂城へ入った。

 秀吉が大坂城を天下統一の居城とした後、姫路城は弟の秀長が城主となる。天正十三年(1585)、秀長は大和郡山城へ移り、木下家定が城代として入城した。家定はその後城主として二万五千石にまで加増され、豊臣姓を許されている。

 関ケ原合戦(1600)後、姫路城には池田輝政が播磨一国五十二万石の太守として入った。輝政は西国大名の動向に備えて姫路城の改修に着手した。改修には八年の歳月と巨額の費用が費やされた。この城が現在に残る姫路城なのである。

 慶長十八年(1613)、輝政、没して嫡男利隆が継いだ。元和三年(1617)には若くして利隆が没したため嫡男光政は幼いということで鳥取城三十二万石へ転封、播磨は細分化されて姫路藩は十五万石となり伊勢桑名城から本多忠政が新城主として入部した。

 翌元和四年(1618)、忠政の嫡男忠刻に嫁いだ千姫の化粧料によって西の丸が整備された。

 本多氏の後、姫路藩は松平(奥平)氏、松平(越前)氏、榊原(松平)氏、松平(越前)氏、本多氏、榊原氏、松平(越前)氏と譜代、親藩によって藩主が目まぐるしく交替した。

 寛延二年(1749)、老中首座であった上野前橋藩主であった酒井忠恭(ただずみ)が姫路に入部した。以後、酒井氏が十代続いて幕末に至る。

 慶応四年(1868)の鳥羽伏見の戦いでは老中であった藩主酒井忠惇(ただとし)が幕府方にあり、将軍徳川慶喜と共に江戸へ移ったために姫路藩は朝敵とみなされ、姫路城は備前(岡山)藩を主体とする新政府軍に包囲され数発の砲弾が撃ち込まれている。城内では徹底抗戦派の意見を押さえた家老たちによって開城降伏が決定され、藩士は城内から退去して城は明け渡された。この時の家老らの判断によって姫路城とその城下は戦禍を免れたことになる。


▲西の丸から見た大天守と小天守の威容。

▲「ほ」の門と油壁(左)。油壁は現在の姫路城内に残る秀吉時代の数少ない遺構とされる築地塀である。

▲内堀に架かる桜門橋。

▲桜門橋から見た天守。

▲国宝・特別史跡であることを示す石碑。

▲内堀と三の丸石垣。

▲大手門前の城址碑。

▲三の丸広場。天守の建つ高台が姫山。その左の高台が西の丸のある鷺山である。姫路城は戦国の名残りを残す平山城なのだ。

▲三の丸広場から見る大天守と小天守。

▲姫路城の絵図。

▲水四門。「水」の門は乾小天守と西小天守の周囲を巡るように五つの門から成り立っている。簡単に大天守へは行けない仕組みである。

▲油壁のある「ほ」の門を入ると180度向きを変えて水一門をくぐる。

▲「い」「ろ」と二つの門をくぐると坂道を上がって「は」の門に至る。

▲二の丸から見ると幾重にも重なる石垣に圧倒される。

▲菱の門。

▲西の丸。

▲西の丸長局と呼ばれる百間廊下。千姫のために築かれた。

▲西の丸から望む天守群。

▲三国堀。姫山と鷺山の谷を堰き止めて出来た用水池。

▲「る」の門。三国堀の東側から二の丸に入る埋み門である。

▲「る」の門の内側。

▲お菊井戸。播州皿屋敷のはなしで有名だ。

▲「り」の門。お菊井戸のある上山里から天守方面へ続く門である。

▲備前門。石垣に組み込まれたひときわ大きな石は姫山称明寺墓地にあった石棺を利用したもの。

▲大天守の石垣。

▲大天守のみなみがわ広場は備前丸。城主池田輝政の居館があった。

▲「ろ」の門。城内には数多くの門が設けられ、その守りの堅さに驚嘆する。

▲西の丸の南面石垣。

▲西の丸の「カ」の櫓。

▲西の丸の「ワ」の櫓。

▲大天守保存修理工事が2009年から2015年にかけて実施された。2014年4月撮影。

▲2014年の「軍師官兵衛」大河ドラマ館。

----備考----
訪問年月日 2018年1月3日
主要参考資料 「姫路城の話」
「郷土史ひめじ」他

 トップページへ全国編史跡一覧へ