鎌倉初期の文治二年(1186)に桑名三郎行綱がはじめて桑名に城館を構えたことが伝えられているが詳細はよく分らない。時代が下って戦国時代、永正十年(1513)に北勢四十八家にも数えられる伊藤武左衛門実房がここに城を築いた。桑名三城のひとつ、東城と呼ばれるものである。ちなみに樋口内蔵の西城、矢部右馬允の三崎城を加えて桑名三城という。
さらに下って天正二年(1574)、長島一向一揆を殲滅した織田信長は滝川一益に北伊勢五郡を与え、長島城主とした。以後、桑名郡は滝川一益の支配下となり、三城もその麾下に置かれた。ちなみに東城の伊藤氏は城を譲って降伏したという。
天正十一年(1583)、北伊勢が織田信雄領となると家臣天野景俊、次いで丹羽氏次が桑名支配を任された。
天正十八年(1590)、小田原の役後、織田信雄が改易されると北伊勢は豊臣秀次領となり家臣服部一正、翌年には一柳直秀(可遊)が桑名城主となった。この一柳氏時代に桑名城の城郭化が進められたようで、文禄四年(1595)に神戸城の天守閣が移築されたと言われている。この年、直秀は秀次事件に連座して切腹した。
一柳氏に次いで氏家行広が二万二千石で桑名城主となった。慶長五年(1600)、石田三成が挙兵すると氏家行広は中立の立場をとろうとしたが、西軍勢が伊勢に進撃してくるとこれに従った。このため、関ヶ原合戦後に改易となり、松平家乗が城を預かった。
慶長六年(1601)、徳川家康は本多忠勝に十万石を与えて桑名に封じ、桑名藩が成立した。忠勝は徳川四天王のひとりに数えられ、武辺一辺倒の武将の観がある。若き頃には遠江一言坂の戦いで蜻蛉切りの槍を振るって家康の危機を救い、武田信玄をして「家康には過ぎたるもの」と称されたほどの武人であったが、桑名入部後は城下町の整備(慶長の町割り)や大規模な築城工事を行い、現在の桑名の基礎を築いたという名君の姿も示している。近世城郭化の築城工事は慶長十五年(1610)まで続き、四重六階の天守と五十一の櫓、四十六の多聞を備えた河岸城が完成した。家康が大坂城の豊臣氏に備えて東海道の要の地であるがゆえに本多忠勝を桑名に配したのであることは言うまでもないだろう。
桑名城完成の前年に忠勝は隠居して嫡男忠政が二代藩主となった。忠政は大坂の陣に出陣して戦功を上げた。
この大坂の陣後、燃え盛る大坂城から救い出された家康の孫娘千姫が江戸に向かう途中、桑名城下七里ヶ渡しで船に乗った。この時、船中警護にあたっていた忠政の嫡男忠刻の男ぶりに千姫は一目惚れしてしまったという逸話が伝えられている。翌年の元和二年(1616)に千姫は願いかなって忠刻に嫁いだが、この間に石州津和野城主坂崎出羽守による千姫強奪計画が露見して江戸の街が騒然としたことがあった。いわゆる「千姫事件」である。夏の陣の際に家康は千姫を救い出した者に千姫を与えると言って救出の指示を出したが、これに応えて救い出してきたのが坂崎出羽守であったのだ。ところが、現実には千姫は本多家に嫁ぐことが決まったのである。そこで出羽守は「約束が違う」と憤慨して江戸屋敷に立て籠ったのである。幕府方は出羽守乱心として屋敷を包囲して出羽守を切腹に追い込み、滅ぼしてしまった。
元和三年(1617)、本多氏は播磨姫路に加増転封となり、家康の異父弟松平(久松)定勝が桑名藩主となった。定勝の後、定行、定綱、定良、定重と宝永七年(1710)まで五代続いた。元禄十四年(1701)に天守は焼失、以後再建されることはなかった。
宝永七年(1710)から文政六年(1823)まで松平(奥平)氏が忠雅、忠刻、忠啓、忠功、忠和、忠翼、忠堯と七代続いた。
その後再び松平(久松)氏が桑名藩主となった。老中松平(久松)定信による先祖の地への思いがこの国替えとなったと言われている。松平(久松)氏は定永、定和、定猷、定敬、定教と五代続いて明治に至った。
慶応四年(1868)、鳥羽・伏見の戦いで桑名藩は幕府方として戦ったが、敗戦後に藩主定敬(江戸から会津、そして函館に走る)不在のまま新政府に恭順することになり、無血開城した。しかし、この時に城はことごとく焼き払われてしまった。
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