南北朝時代、亀山城を拠点に活躍して勢力を拡大した関盛政は貞治六年(1367/正平二十二年)に五人の子を分家させて領内に配した。
この五人の子の内、長男の盛澄が配されたのが当地である。盛澄は沢城(鈴鹿市飯野寺家町)を築いて神戸氏を名乗った。その後神戸氏は伊勢国司北畠氏との関係を強化して関本家と同等の力を持つに至った。
戦国時代、北畠家から養子として神戸家入り、四代当主となった具盛は新たに城を築いて本城とした。これが神戸城であり、天文十九年(1550)頃のことと言われている。具盛は楠氏(楠城/四日市市)や赤堀氏(赤堀城/四日市市)と縁戚となって北勢にその勢威を拡大した。
五代長盛は本家筋の関氏と戦い、関係が悪化した。六代利盛は武名の誉れ高かったが永禄二年(1559)に二十三歳で急逝した。このため次男で出家していた友盛(四代具盛と同名のため「友」とすることが多い)が還俗して当主となった。
友盛は六角家臣蒲生定秀(日野城)の娘二人を関盛信と共に娶り、疎遠となっていた関氏との関係を修復すると同時に北畠氏から離れて六角氏についた。
永禄十年(1567)、織田信長による北伊勢進攻が開始された。友盛は神戸城の北の支城高岡城の守りを固めて織田勢の攻撃を防いだが、翌年の再進攻に際しては信長三男の信孝を養子に受け入れることで和睦し、信長の麾下に属すことになった。
和睦した永禄十一年(1568)、友盛は信長の上洛戦に従軍して六角氏攻めに参加した。六角氏の本城である観音寺城が落ちてもなお抵抗を続けていた蒲生賢秀の日野城に友盛が単身乗り込んで説得、降伏させるという功名を上げ、神戸の名を上げた。
しかし、養子にした信孝との関係は良くなかったようで、元亀二年(1571)に信孝を冷遇しているとして信長の怒りを買い、蒲生氏の日野城に幽閉されてしまった。
信孝は友盛幽閉によって神戸氏の家督を継承した。この処置に不満を抱いた家老の山路弾正やその他の一族家臣は殺されたと言われる。天正八年(1580)から神戸城の拡張工事が始まり、五重の天守が建てられたという。城下町の整備も同時に進められた。天正十年(1582)、友盛は許されて神戸に戻り、沢城に隠居した。
天正十年(1582)の本能寺の変後、信孝は織田姓に戻って美濃へ移った。神戸城には信孝家臣小島兵部少輔が入った。翌十一年(1583)、信孝は秀吉によって切腹に追い込まれ、神戸城の小島兵部は開城して織田信雄に降伏した。次いで神戸城主となったのは信雄家臣の林与五郎である。
友盛は娘(信孝室)を林与五郎の嫡男十蔵に嫁がせ、与五郎共々神戸氏を名乗らせた。天正十二年(1584)、小牧・長久手合戦後、伊勢は羽柴秀吉方の支配するところとなり、神戸与五郎父子は美濃に逃れた。友盛も沢城を脱して安濃津城の織田信包を頼り、慶長五年(1600)に客死してしまった。神戸の名を背負う友盛としては何としてでも神戸の名を残したかったのであろう、従弟の高島勝政の子政房を養子とした。政房は蒲生氏に仕えて神戸外記と名乗ったという。
神戸城主も天正十四年(1586)に生駒親正が四万千石で、その後は滝川雄利が二万石で続いた。
文禄四年(1595)、天守が桑名城に移築されて三重櫓となって神戸櫓と呼ばれた。
慶長五年(1600)の関ヶ原合戦で雄利は西軍についたため改易となり、翌年に一柳直盛が五万石で入部して神戸藩が立藩された。
寛永十三年(1636)、一柳氏の転封により天領となり、城は廃されて破却された。
慶安四年(1651)、石川総長が一万石で入部して神戸藩が復活した。石川氏は三代続いて享保十七年(1732)に本多忠統一万石と替わった。
本多忠統は後に五千石加増されて一万五千石となり、寛延元年(1748)には築城が認められて神戸城が再建された。本多氏は七代続いて明治を迎えた。
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