寛元三年(1245)、朝廷内で失脚して配流となった前摂政藤原道家が当地に館を築いたことが長島城の起源とされているが、城としての機能を有したのは文明十四年(1482)に北伊勢四十八家の一人伊藤重晴が安濃郡から当地を押領して城砦化してからであろう。
永禄十年(1567)、織田信長によって稲葉山城(岐阜城)を攻略された斎藤龍興は長良川を下って長島に入った。信長は龍興を追うようにして北伊勢を攻略してほぼ支配下に置いたが、長島には手を出さなかった。一向宗の願証寺の影響下にあったからである。
石山本願寺が反信長の挙兵に踏み切ったのは元亀元年(1570)である。同時に長島願証寺にも顕如の檄が飛び、一揆勢が蜂起した。
一揆勢は長年圧政を強いてきた長島城の伊藤氏を追放し、ここを拠点として信長の弟信興が陣する古木江城を攻めて信興を自刃に追い込んだ。
翌年、信長は一揆討伐の軍を発して長島に進攻したが激戦の末に氏家卜全ら多くの将士が討たれ、柴田勝家まで負傷して作戦は失敗に終わった。
天正元年(1573)、信長は二度目の一向一揆討伐に乗り出し、一ケ月に及ぶ作戦を展開したが大した戦果もなく、帰陣途中に一揆勢に襲われて林通政らが討死した。
天正二年(1574)七月、信長は七万の大軍と九鬼水軍を動員し、悩ませられ続けてきた長島一向一揆を完全に制圧しようと出陣した。一揆勢は長島城をはじめ篠橋、大鳥居、屋長島、中江の各砦に籠って抵抗したが八月には大鳥居、篠橋の砦が陥落して籠城者は長島城に追いやられた。織田軍による完全な包囲によって一揆勢の兵糧はやがて底を尽き八月には餓死者続出、それでも宗徒らは壁土を喰らいながら必死の抵抗を続けたという。しかし九月に至りついに降伏退城を申し出た。信長はこれを認めたが船に乗って退城するところを一斉射撃によって殲滅してしまった。中江、屋長島の砦には四方より火を放ち、籠城の老若男女二万が焼き殺されたという。
一揆討伐後の長島城には北伊勢の地を与えられた滝川一益が入った。
天正十年(1582)、信長が本能寺に斃れた。関東平定に当たっていた滝川一益は急いで清州に馳せ戻ったが清州会議に間に合わず、長島城に帰城した。翌天正十一年(1583)正月、柴田勝家に与した一益は北伊勢の諸城を攻略して羽柴秀吉との対戦に備えた。一益は長島城に籠城して織田信雄、蒲生氏郷ら二万の軍勢を相手に戦い続け、四月の賤ヶ岳の合戦後も奮戦して七月まで粘って開城した。
その後、長島城には織田信雄が入り、次いで豊臣秀次、福島高晴と城主が変転した。
慶長五年(1600)、徳川譜代の菅沼定仍(さだより)が二万石で入部して長島藩が立藩した。菅沼氏は二代続き、元和七年(1621)から慶安二年(1649)の久松松平康尚の入部まで幕府領、松平氏二代の後増山正弥(まつさみつ)が二万石で入部した。増山氏は八代続いて明治を迎えた。
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