星崎城
(ほしざきじょう)

愛知県名古屋市南区本星崎町本城


▲ 星崎城跡は現在の笠寺小学校の敷地となってお
り、校門を入ったところに城址碑が建つのみである。

憤怒の籠城

 星崎城の創築者は山田次郎重忠とつたえられており、時期は鎌倉初期の頃になる。山田重忠は平家追討戦に加わり、その後御家人となって尾張国山田荘(尾張北東部)の地頭となった。承久の乱では宮方の武将として活躍、京の戦場で壮烈な最期を遂げたことで知られる。城はその後廃城となったと伝えられている。

 天文二十四年(1555)、織田信長は星崎城主花井三河守に二百七十八貫文の領地を与えたと伝えられており、かつての古城跡が信長によって取り立てられたようだ。これは鳴海城の山口氏の反乱によって今川方となっていた星崎とその周辺の地がこの頃に信長によって奪回されつつあったことを意味するものでもあった。

 花井三河守は永禄五年(1562)に没したとされる。その後、城がどうなったのかよく分らない。

 天正十年(1582)、本能寺の変。織田信長亡き後、二男信雄の家臣となった岡田重善が星崎城主であった。城郭として整備されたのはこの頃ではないだろうか。重善は信長の父信秀に仕え、十五歳で小豆坂合戦に臨み、七勇士(七本槍)に数えられる活躍をした。信長時代には馬廻りをつとめた豪勇の将である。

 天正十一年(1583)、重善没して長男重孝が一万五千石を継いで星崎城主となった。織田信雄を支える重臣のひとりでもある。

 天正十二年(1584)、信雄と羽柴秀吉の不和が表面化する。秀吉は信雄の重臣津川義冬、浅井長時そして岡田重孝らと会見して味方に引き入れようとしたという。

 三月三日、この事態に激怒した信雄は秀吉と会した重孝ら三家老を長島城に呼び出して謀殺してしまったのである。そしてこれは秀吉に対する宣戦布告ともなったのである。

 突然、城主を失った星崎城では重孝の弟善同(よしあつ)が家中をまとめ、城の守りを固めた。主君信雄の卑劣な仕打ちに善同以下城兵みな怒りに打ち震えていたことであったろう。

 六日、信雄の命を受けた刈谷の水野和泉守忠重の軍勢が星崎城に攻め寄せた。水野勢は城下に火を放ち、逃げる城兵を追って二の丸まで攻め入り、激戦となった。古城の絵図を見ると南から北に向かって三の丸、二の丸、本丸と続く連郭式の城であったようだ。城兵の抵抗は激しく続いた。

 十日頃であろうか、善同は本丸の櫓から数万の徳川勢が清州方面に進撃する様子を目にして愕然とした。星崎城の戦いなど羽柴、徳川双方ともに眼中に無いのである。

 十六日、援軍の期待できぬ状況下で善同は開城を決した。翌日、善同らは城を水野忠重に渡して退去した。

 戦後、重孝の家臣であった山口重勝が城主となり、天正十四年(1586)に養子重政が継いだ。天正十六年(1588)、伊勢国茂福に移り、星崎城は廃城となった。

 ちなみに岡田善同は星崎城退城後、佐々成政そして徳川家康に仕え、関ヶ原合戦、名古屋城普請などに活躍、五千石の旗本として家康の信任が厚かったと伝えられている。


笠寺小学校の校庭北側。城の遺構は見られないが、この高低差がかつて城跡であったことを偲ばせている

▲秋葉社の社殿横に建つ「星崎城址」の碑。
 ▲ 笠寺小学校の南側。電話ボックス前の階段を上ったところに城址碑が建てられている。
▲ 城址説明板。

▲城址西側の高台の秋葉社。

----備考----
訪問年月日 2011年2月19日
主要参考資料 「日本城郭全集」
 ↑ 「歴史散歩読本・尾陽古戦場記」他

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