名古屋城
(なごやじょう)

国指定特別史跡・百名城

愛知県名古屋市中区本丸


▲ 名古屋城天守。昭和20年5月14日の空襲によって戦災焼失してしまったが、昭
   和34年10月に鉄筋コンクリート建造によって再建され、往時の雄姿を取り戻している。
(写真・名古屋城天守2023)

戦国最後の
      大城塞

 慶長十四年(1609)一月二十五日、徳川家康は九男義利(十歳、後に義直と改名)を同道して清洲城に入った。義利はすでに(同十二年)甲府二十五万石から清洲四十三万石に移封されていたのであるが領国入りはこれが最初であった。そしてこれがまた尾張徳川家のはじまりとなる。

 家康は清洲城に七日間滞在した。将軍職を秀忠に譲り、隠居の身となった家康の思案は天下平定の最後の詰め、つまり大坂城の豊臣家をいかにして滅ぼすかにあった。その思案のひとつに、尾張の地に新城築城の構想があった。大坂の止めを刺すにあたり、万が一に備えて尾張の地に大坂方の大軍を足止めさせるに足る巨城が欲しかったのである。関ヶ原の前例もあるように、再び濃尾が雌雄を決する場とならぬとも限らないのである。

 この清洲滞在中に家康は城内を視察して廻ったが、大軍の進退にはいかにも不向きな城であると云わざるをえなかった。そこで新城の候補地としてあがったのが小牧、古渡、名古屋の三ヶ所であった。検討の結果、家康は義直付きの重臣山下氏勝(荻町城)の献言もあり、四周の眺望及び水軍との連携などの観点から名古屋に新城を築城することに決した。

 家康はただちに名古屋築城を下知、佐久間河内守政美、山城宮内少輔忠久、滝川豊前守忠征、村田権右衛門、牧助右衛門長勝の五人に普請奉行を命じた。年内には地割、縄張り及び諸大名の助役が定まり、翌慶長十五年二月から築城工事が開始された。

 工事総監督ともいうべき御城御築総大将役には築城の名手加藤清正(熊本城)が任じられた。清正は望んで本丸天守台の土木工事を請け負った。清正にとって家康に対する忠勤は豊臣家を安泰ならしめるための行動であったのである。助役を命じられた諸大名の殆んどは、前田、黒田、細川、蜂須賀、山内、浅野、福島といった豊臣恩顧の者達であった。築城による出費を強要して彼等の力を削ぐのも家康の目的であったことは云うまでもない。

 関ヶ原以後、天下普請と称して江戸城駿府城の普請を命じられ、ここにきて今度は名古屋城である。愚痴のひとつも出そうなものだ。

 安芸備後四十九万石(広島城)の福島正則が家康の娘督姫(ごうひめ)の婿である播磨八十万石(姫路城)の池田輝政にこう云った。
「こうも度々城造りに駆り出されては身代がもたぬ。婿殿から大御所に免除を頼んではもらえぬか」
 それを聞いていた加藤清正がこう云った。
「普請がいやなら、さっさと国許に帰り、戦さ仕度でもするがよい」
 とたしなめたという。自家安泰を願うならば文句を言わずにやれということだ。

 清正以下諸大名は競って工事を進め、本丸石垣は八月には完成した。年内には縄張り、石垣の普請はほぼ完了してしまった。この年の九月、清洲に居を構えていた武家、町屋の大半が慌しく名古屋に引っ越した。これを「清洲越」と呼んでいる。

 引続き作事、つまり建造物の建築が進められた。大工頭に中井大和守正清、奉行に小堀遠江守政一といった建築の大家が揃い、慶長十七年にはほぼ完成した。

 名古屋城は大砲などの火力戦に対応した築城であるといわれている。各郭の面積を広くとり、櫓はその数を減らして背を低く頑丈な造りとしていた。さらに火災に強くするために漆喰塗り込め壁となっている。いわば戦国最後にして最強の城といえよう。

 慶長十九年(1614)、大坂冬の陣。翌年、夏の陣をもって豊臣家は滅んだ。幸か不幸か、名古屋城は機能することなく済んだ。

 これからおよそ二百五十年後、この名古屋城が徳川家の防波堤としての役割を担って機能することを危惧された時期があった。

 享保元年(1716)、七代将軍家継(八歳)没。これによって徳川宗家が絶えることになった。当然、御三家筆頭である尾張徳川家が将軍家を引き継ぐべきであったが、結果は紀州家から吉宗が迎えられて八代将軍となった。その後、将軍家は紀州家によって引き継がれてゆくことになる。同時に尾張家に対する抑圧も進められ、紀州家主導の押し付け養子によって尾張家は形骸化してしまうことになる。

 必然的に尾張藩内には反幕の気風が高まる事になった。これは御付家老の成瀬隼人正正肥(まさみつ)を首魁とする尊王派(金鉄組)の勢いを強くする結果となった。

 嘉永二年(1849)に尾張支藩高須家から慶勝を藩主に迎えるに至り、藩は金鉄組主導で尊王反幕の道を歩み出すことになる。慶勝自身も母が水戸烈公(斉昭)の姉であったためか、尊皇攘夷思想に傾倒していた。

 慶応三年(1867)、大政奉還によって幕府はなくなった。慶勝は勤皇の志を認められて新政府の議定となった。成瀬ら重臣たちも要職に就いた。これで尾張藩の前途は開けたかのように見えた。

 とはいえ、尾張藩は御三家筆頭の徳川氏である。朝廷をはじめ薩長の信頼を不動のものとするのは容易なことではない。

 慶応四年一月六日、京に居た慶勝らのもとに国許から密使が到着した。
「渡辺新左衛門らが義宣君(慶勝の嫡子)を擁奪して幕軍に合流せんとの動きあり」
 と報じてきたと云われている。

 渡辺新左衛門在綱は藩内では佐幕派、というより成瀬派に対抗する一方の領袖であった。

 十二日、慶勝と成瀬ら七重臣は岩倉具視に陳情して離京、二十日には名古屋城に戻った。
「朝命により死を賜うものなり」
 慶勝と成瀬隼人正らは問答無用とばかりに渡辺ら十四名の藩士を斬首した。

 これが「青松葉事件」と呼ばれるものである。

 藩内には渡辺姓が多く、各家がそれぞれ別称を用いて区別していたが、「青松葉」は渡辺新左衛門家のそれであったので後にこう呼ばれたのである。

 事件後、緘口令と焚書令が徹底されて今では事の真相を明かにするのは困難であると云われている。朝命による粛清であるならば隠す必要はなかったのではないか。やはりこれは慶勝と成瀬ら金鉄組の策謀によるものと受け取られても仕方がないと云わざるをえない。

 征東の準備を進めつつあった新政府にとって、その途上にある名古屋城の存在は大きかったはずである。万が一、名古屋城が幕軍側として機能すねことになっては征東作戦に大きく支障をきたすことになるのだ。慶勝らの行動を黙認(「名古屋城と城下町」水谷盛光著)した背景にはこうしたことも手伝っていたのではないか。

 いずれにせよ、家臣十四名の首を刎ね、尾張藩も勤皇のために血を流したのだという事実こそが慶勝らにとって大事であったのであろう。

 その後、尾張藩は官軍に参加して出兵、新政府への忠節の態度を取り続けた。にもかかわらず、新政府は慶勝を議定から罷免、薩長主導体勢のなかに尾張閥の入り込む余地はなかった。

 明治二十三年、帝国憲法発布による大赦で渡辺新左衛門ら十四名の罪科が消滅された。

 名古屋城に戻ろう。

 明治五年(1872)、陸軍省の管轄となり名古屋鎮台が置かれた。同二十六年、宮内省に移管されて名古屋離宮となる。

 昭和二十年(1945)、名古屋大空襲により天守閣および御殿がともに焼失。

 昭和三十四年、市民の熱意により天守が再建され、名古屋市民のシンボルとして親しまれて現在に至っている。


本丸の西南隅櫓(未申櫓)と天守。本丸の周囲は空堀となっている

▲表二之門。本丸への正面玄関である。

▲御殿復元前の本丸。

▲御殿復元後の本丸。(2023)

▲復元された本丸御殿。(2023)

▲西南隅櫓と天守。(2023)
 ▲二之丸東側の堀
▲本丸北側の外堀。

▲西北隅櫓(戌亥櫓又は清洲櫓とも呼ぶ)。

加藤清正は巨石の運搬に際しては青毛氈で石を包むなどして飾り、派手に着飾った小姓らとともに石の上に立ち、日の丸の軍扇を開いて指揮を執ったという。

本丸の東二之門付近の「清正石」と呼ばれる城内最大の巨石。加藤清正の派手な石引き人気からこのように呼ばれているが、ここの丁場割(工事区域の分担割り)は黒田長政である。

▲東南隅櫓(辰巳櫓)。

▲本丸と天守。

▲天守から見た本丸御殿跡。2018年6月に御殿が再建されている。

▲深井丸から見た天守。

▲名古屋城築城に多大な貢献をした加藤清正公の像。(2023)

▲矢穴の穿たれた大石。(2023)

▲西の丸御蔵城宝館。展示施設である。(2023)

----備考----
訪問年月日 2006年4月1日
主要参考資料 「日本城郭総覧」他

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