(かわづじょう)
静岡県賀茂郡河津町笹原
▲ 河津城の本曲輪。大日山とも呼ばれる標高180.9mの
山頂である。二の曲輪から本曲輪に登る階段脇には石仏
が鎮座している。まるで河津の町を見守るかのように。
火攻め落城、
蔭山氏の古城
永享の乱(1438)。将軍に反抗的であった鎌倉公方足利持氏は、この乱で討伐を受けて滅んだ。持氏の遺児のうち春王丸、安王丸は結城合戦(1440)で死に、成氏は古河公方となって幕府との抗争を続けた。 乱の当時、持氏の子らのなかで最も幼かったと思われる広氏(三歳)は乳母に抱かれて伊豆の山中に逃れたと伝えられている。 そして広氏はここ河津郷で成長して蔭山勘解由と名乗り、城を構えた。その城が河津城であると伝えられているのだ。 延徳三年(1491)になると、興国寺城主伊勢新九郎盛時(北条早雲)が伊豆に攻め込んできた(年は現地説明板による)。伊勢新九郎による伊豆平定戦は破竹の勢いで進められ、その軍勢はやがて河津城にも迫ってきた。 戦いは攻城軍が麓に火を放って籠城軍を攻め立てたという。この時、城兵たちは迫りくる火の手に、籠城に備えた大量の兵糧米を山頂から流し落として防ごうとした。このため、五百年以上を経た今でも城址では焼けた米を拾うことができたそうである。 米流しの苦肉の策にもかかわらず、城は落城して蔭山氏は降伏した。 その後、蔭山氏は後北条氏の家臣(小田原衆)となって代を重ねた。やはり鎌倉公方家の血筋が尊重されたのであろうか。 時は過ぎ、蔭山勘解由広氏の六代目氏広のときに主家後北条氏(小田原城)は最期を迎える。天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐がそれである。この戦いで伊豆半島沿岸の北条方の諸城は豊臣水軍によって次々に落とされ、ここ河津城にも迫った。 城址の遺構は延徳の落城時に近いものとされるので、落城後は海上の見張所に利用された程度のものであったと思われる。したがって拠り所のない蔭山氏広は海上を圧する豊臣の大軍船団を前にして戦わずに降った。 降伏後、氏広は家族とともに修善寺付近に移ったといわれる。氏広の娘(養女とも)お万が文禄二年(1593)に徳川家康の側室となって蔭山殿と呼ばれ、家康十男頼宣、十一男頼房を産んだ。 |
▲城の南西側の河津川から見た河津城。中央の山が城山である。 |
▲説明板の絵の部分。河津城火攻めの様子が描かれている。 |
▲ 河津駅北側の登城口。「城山ハイキングコース入口」の案内柱が立っている。 | ▲ 登城コースもこの休憩所までは普通のハイキングコースである。 |
▲ 休憩所からは急な階段が250段ほど続いて山頂となる。心臓破りの難所だ。 |
▲ 登城路途中で海を眺めると伊豆大島が見える。 |
▲ 本曲輪跡。標高180.9mである。 |
▲ 城山の南東方向海側にそそり立つ片瀬山。 |
▲ 二の曲輪から河津の街並みを展望。 |
▲ 二の曲輪に立てられた城址説明板。 |
▲ 河津城跡の説明碑。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2011年1月3日 |
主要参考資料 | 「日本城郭大系」 |
↑ | 「静岡県の中世城館跡」他 |