堂山城
(どうやまじょう)

豊橋市石巻中山町


▲ 堂山城は中山地区北側の山腹にあったと言われるが城郭としての
遺構はなく、居館程度のものが置かれていたと見られている。

正勝、突戦して降らず

 永禄四年(1561)春、西郷正勝はそれまでの居城であった月ヶ谷城を嫡男元正に譲り、ここ中山(豊橋市石巻中山町)に移った。東三河の国人菅沼氏や設楽氏らとともに今川氏を見限って松平元康(徳川家康)への臣従を決断した正勝がさらなる要害の地を求めて移ったものであろう。

 中山は周囲を山に囲まれた小さな盆地状の地である。正勝はここに居城とする五本松城を築き、家臣屋敷も建設して西郷氏の一大拠点にしようとしたものと思われる。

 この堂山城は中山の北側山腹にあって地内全体を俯瞰できる位置にある。もとは天台宗の寺院である太陽寺の堂宇があったところといわれ、堂山の名もここからきている。土塁や堀跡といったものが無く、城砦化した形跡が無いと言われている。おそらく、正勝が五本松城を築く際に仮の居館を置いた場所であったのではないだろうか。

 ところで、離反された今川氏真である。激怒したことは言うまでもない。直ちに吉田城(豊橋市)城将小原鎮実に人質の処刑と討伐の軍事行動を命じた。

 小原鎮実率いる今川勢は月ヶ谷城下嵩山市場口(市場城)に攻め込んで西郷氏を脅かすと、続いて菅沼氏の野田城を攻め落として凱歌を上げた。

 そしてここ中山には今川氏に忠誠を誓う牛久保城主牧野出羽守保成の軍勢が押し寄せてきた。資料には永禄四年四月(九月とも)とある。五本松城築城工事の最中である。西郷勢は堂山城前に集結し、正勝もここから出撃したものと思われる。中山合戦、または堂山合戦と呼ばれる戦いである。
「正勝、突戦して降らず」
 と諸国廃城考にあるように、正勝みずから敵勢に突っ込み、西郷勢一丸となって牧野勢を撃退した戦いであったのだろう。

▲ 段状の平坦地の様子。
 ▲ 山裾の道路沿いに建つ医(くすし)神社の鳥居。
▲ 医神社。この東側(右手)から山を登る。

▲ 医神社からしばらく登ると右手に平坦地が広がっている。

----備考----
訪問年月日 2011年10月16日
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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