(わちがやじょう)
豊橋市嵩山町
▲ 月ヶ谷城は築城以来、西郷氏の城として存続したが、城自体は
小規模なものであり、詰城として築かれたものと思われる。
嵩山西郷氏の城
永正三年(1506)夏、今川氏親の重臣伊勢新九郎(後の北条早雲)に率いられた今川勢が東三河に進攻、松平長親と戦って今橋城(吉田城/豊橋市)を落とした。この結果、東三河の諸氏はこぞって今川氏に属したが、この中に春瀬(嵩山/すせ/豊橋市嵩山町)西郷の名があった。 実はこの西郷氏、その来歴については明確でなく不明な点が多い。西三河(岡崎)西郷氏との関連も論考されているが、現状では分らないとせざるをえない。 ともかくも今川氏親が東三河にその勢力を伸ばし始めた頃には、この嵩山近辺に西郷氏が拠点を構えていたのであろう。そして嵩山西郷氏を背負って立つことになる弾正左衛門正員が永正六年(1509)に誕生する。通常は正員をもって東三河(嵩山)西郷氏の初代としている。 大永三年(1523)、西郷信員が嵩山の一族右京進を逐ってこの地を押領、月ヶ谷城を築いたと伝えられている。信員は正員と同一人物とされているが当時の正員の年齢からみて父の可能性も考えられる。また、同時期に左京殿城(嵩山町内)の攻防があったようで、正員がこの城の小枝左京進を逐ったことも伝えられている。いずれにせよ、この時期に嵩山とその周辺に蟠踞する西郷氏一族が多少の波乱を経て正員のもとに統一されたものと思われる。月ヶ谷城の築城は統一西郷氏を象徴する事業であったのかもしれない。 享禄二年(1529)、西郷氏は東三河に兵を進めた松平清康に菅沼氏らとともに属するが、天文四年(1535)には再び今川氏に属した。後に菅沼氏(野田城)と西郷氏は緊密に支え合って戦国の世を生き抜いて行くことになる。天文二十一年(1552)正員、没。四十二歳であったとされる。 正員の後、西郷氏の当主として正勝の名が登場する。ただし、正員と正勝は父子ではないようだ。正勝の没年齢は不明であるが正勝次男清員の没年齢(文禄三年/1594/六十二歳)から推測すると天文二年(1533)以前には成人年齢になっていなければならないが、この年は正員十九歳であり、正勝が正員の子でなかったことは明らかである。したがって兄弟ではなかったかとも思われる。 永禄三年(1560)、桶狭間合戦における今川義元の敗死を境に三河の様相は一変する。岡崎城に松平元康(徳川家康)が自立して三河平定に乗り出したのである。 翌永禄四年(1561)、正勝は東三河の未来と一族の存亡を賭けた重大な決断を下した。今川氏を離反して松平元康に従ったのである。しかも縁戚となっていた菅沼定盈(野田城主)とその一族である田峯城、長篠城の菅沼氏と設楽氏を誘っての離反であったのだ。無論、これに対する今川氏の怒りは相当なものとなったことは言うまでもない。 今川氏はこの離反行為を「三州錯乱」と呼び、西郷氏や東三河諸氏の人質を串刺し刑にして殺し、直ちに兵を動かした。最初に嵩山市場口(市場城)を攻め、続いて野田城を囲んだ。 正勝は子元正を野田城に送って菅沼定盈を応援したが、多勢の今川勢には敵わず落城、定盈らは正勝のもとに身を寄せた。 この秋、正勝は月ヶ谷城を元正に譲り、五本松城を築いて本城としていたが、今川方朝比奈泰長(宇津山城主)の奇襲を受けて無念の討死を遂げてしまった。しかも嫡男元正、三男勝茂もろとも討死してしまい、西郷氏は滅亡の危機に瀕してしまった。かろうじて質として岡崎にいた次男清員の働きによってこの危機を乗り越えることができたのではあるが。 その後、清員は元康(家康)の支援を受けて五本松城を回復して西郷氏の本拠地とした。月ヶ谷城も支城として維持されたと思われるが、その後のことは定かではない。 |
▲ 南側から見た月ヶ谷城(中央のピーク)。 |
▲ 登城口。ここから登山路となる。 | ▲ 登山路は薄いため黄色と赤の案内表示を見落とさないことが大事だ。 |
▲ 主郭西側の虎口。 |
▲ 主郭を廻る土塁。 |
▲ 主郭上段。主郭部分は南北二段に分かれている。 |
▲ 西郷氏が外護した正宗寺の唐門。二代将軍秀忠の母は西郷清員の養女お愛(西郷の局)である。その関係から唐門には葵の紋が彫られている。 |
----備考---- | |
---|---|
訪問年月日 | 2011年10月2日 |
主要参考資料 | 「西郷氏興亡全史」他 |